上州伊香保千明(いかほちぎら)の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。 色白の細面、眉の間ややせまりて、頬のあたり肉寒げなるが、疵といわば疵なれど、瘠形のすらりとしおらしき人柄。これや北風に一輪勁を誇る梅花にあらず、また霞の春に蝴蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。・・・(略) 武男は浪子の左手をとりて、わが唇に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環燦然として輝けり。 二人しばし黙して語らず。江の島の方より出で来たりし白帆一つ、海面をすべり行く・・・(略)・・・ 浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」 「本当? うれしい! ねエ、二人で!――」 (館内資料不如帰の一節から) ※浪子は会津藩士の捨松の夫大山巌陸軍大将の先妻の娘信子で武男は鬼県令・土木県令の異名を持つ子爵三島通庸の長男弥太郎がモデルの実話とは初めて知りました
館内不如帰ポスターには大正八年十一月十八日ヨリ毎日正午十二時開演 観劇料 特等壱名 金壱圓弐拾銭 一等金壱圓 二等金七拾銭 三等五拾銭 四等参拾銭 普通席弐拾銭などとある 水谷八重子・市川翆扇・水谷良重の名も懐かしい 『来世で二人が逢うとすれば場所は伊香保だろう』とまでに愛着の念を抱いた伊香保に徳富蘆花夫妻は生涯で10回訪問され最後は昭和2年7月で此の地で終焉を迎えた 千明仁泉亭のアルバムには歌を書き記している
生めよ殖えよ 湧けよ流れよ 永久に 仁(めぐみ)の泉命の力 健(徳富健次郎)
蕨もへ 鈴蘭かほる 伊香保山 山は5月の 浅緑して 愛(徳富愛子)
右上下 三宮(伊香保)神社と万葉歌碑 北群馬郡吉岡町
万葉集のこの歌が詠まれた時代の凡そ1400年前は榛名の二ツ岳の噴火が繰り返されて榛名山は恐ろしい怒りの山=怒ツ穂(イカホ)と呼んで神として恐れ崇め信仰の対象としてきた この里宮として三宮神社(イカホ神社)が置かれたのです この歌のイカホ風は榛名山から吹き下ろす空っ風です 天平勝宝2年の創祀しの伝承を持つ 伊香保は当地方では伊賀保と呼ばれ九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は正一位伊賀保大明神とある(説明板)五社あった伊賀保神社の中心地であったと言う
伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾が恋のみし 時なかりけり 巻14-3422 |
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