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上左端 中山道倉賀野宿碑(佐野の舟橋2km東部) 倉賀野宿は中山道69次のうちの江戸から12番目の宿であり日光へ向かう例幣使街道の分岐点として又江戸時代は支流烏川で利根川最上流の河岸として栄えた
左 倉賀野宿常夜灯と追分碑
国道17号と旧道のY字路にあり左碓氷峠11里 右江戸24里とある 信州に帰る一茶が生憎の川止めで長逗留してると偶々常夜灯建設の寄付を募られ渋々支払ったという
手枕や 小言云っても 来る蛍
上右 倉賀野追分常夜灯
文化11年(1814)甲戌五月建立 雷電為衛門や勿論数代前の柏戸利助 行事の木村庄之助 式守鬼一郎 歌舞伎の市川団十郎 松本幸四郎等寄付者等3737名の名が刻んであるという 実は放蕩無頼の高橋光賢と云う男が罪滅ぼしの為に信州・江戸・京都辺りまで寄付を集めて歩いたという 残念ながらほとんどその名は見えない
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倉賀野河岸跡 利根川の支流烏川にあり利根川最上流の河岸 倉賀野宿は中山道・三国海道・例幣使街道の分岐点として、又江戸からの上野・越後・信濃・下野の広大な市場の中継地として大いにに栄えた 元禄最盛期には上り荷三万駄下り荷二万三千駄 船問屋十軒 舟百五十余艘を有し利根十四河岸中の最高河岸となった(説明碑)
➡ 信長が本能寺で倒れた直後関東管領(関東方面司令)だった滝川一益に関東の勇北条氏直が5万の兵で侵攻した 当初先制攻撃の滝川軍はここで北条氏邦を破ったが小田原から氏直軍本隊が戦線に到着すると 再度ここ神流川で決戦となり滝川軍は敗れ京都へと敗走した |