処刑場跡に建つ忠治地蔵尊   左右に建てられた石燈籠には大阪にある博徒系暴力団や大阪の指定暴力団の組名と組長の名が彫られていた 後ろにある国定忠治慰霊碑や子分の12人衆の慰霊碑もきっとその筋の人達が建立したに違いない  慰霊碑の後ろに隠れるように忠治の墓石がありその背後に広瀬の藪川原で磔に処せられた 胴体と左手足がここに埋葬され首と右手足は愛妾お徳によって生まれ故郷の国定村に埋葬された 三度笠に着流し合羽と腰に藁草履を下げていていかにも渡世人の姿だ
 
 上野介親子の供養塔と家臣団の供養塔 東善寺境内(県指定史跡)
上左
 上野介と共に斬首された荒川祐蔵・大井儀十郎・渡辺太三郎の墓 上野介親子の墓碑の隣 
上右 栗本鋤雲の胸像 横須賀製鉄所建設の功労者で小栗と共に幕末の日本近代化に尽力した人物で 蝦夷地・千島等を巡検し明治以降報知新聞の主筆をした 又日本人として初めてアルプス登山した人である  この胸像は彼の門下であった犬養毅によって作られたもので上野介像の隣にある
 忠治戸惑いの松
関八州に鳴り響いた侠客国定忠治はこの大戸の関所を避けて山越えをしたため関所破りの罪に問われ嘉永3年(1850)大戸の字広瀬の河原で貼り付けの刑に処せられた この関所破りで忠治が山越えをしたのは天保7年(1836)だがこの時やがて越すべき大戸の関所を頭に浮かべ越すべきか越さざるべきかをこの松の根元でたたずみ迷ったと伝える
右端 国定忠治とまどいの松碑
任侠の 名やとこしえに 松の花
と彫られている  忠治治地蔵尊の前には無名の俳人の句が書かれていた
風花や 忠治終焉の 藪川原
任侠の 名やとこしえに 松の花
蜩に 忠治の松の いわれきく

昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に罹らないとの言い伝えあり 等とある
      左和多利 U