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名月赤城山の名セリフ
忠治:赤城の山も今宵限り 生まれ故郷の国定村や 縄張りを捨て国を捨て 可愛い子分のてめェ達とも別れ別れになる首途だァ
定七:そういや 何だか嫌に寂しい気がしやすぜ
巌鉄:あぁ雁が鳴いて南の空へ飛んで往かぁ
忠治:月も西山に傾くようだァ
定七:おらァ 明日からどっへ行こう
忠治:心の向くまま 足の向くまま あても果てしもネェ 旅に発つのだァ
巌鉄・定七:親分!!・・・・
講談・浪曲でお馴染みの名台詞の一節である 幕府の役人に赤城の山へ追い詰められた国定一家の別れの場面は皆さんご存知である
下 彼のもう一つのお墓は伊勢崎市国定町養寿寺にある 然もこれは初代の墓石が侠客や博徒やギャンブラーに削りとられ小さくなったので新しく2代目の墓石だそだ 然しそれでも角が削られ丸くなってきた 左に忠治 右に鶴の戒名があったと言うが読めない 彼が捕縛されたのは中風で動けなくなったためともいわれ流石の侠客も病には勝てなかったという事か |
左和多利 V
左中 忠治無念の大戸の関所跡
この関所は信州街道の要地を抑える重要な関所で寛永8年(1632)に設置された信州街道は草津温泉を始めとする湯治客・善光寺参り・北信濃の廻米・武家商家の荷物・各地の産物の輸送路として中山道を凌ぐ程の活気を呈していた 江戸と信濃を結ぶ最短道路として重要な街道であた 別名信州道・草津道・善光寺道・大戸廻りとも呼ばれ中山道の脇負往還道で碓氷の関所の裏固めの意味を有した(説明板) |