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上 長岡(国定)忠治之墓の碑 天台宗金城山養寿寺 伊勢崎市国定町 右側が長岡忠治之墓の碑で左側は長岡利喜松の墓の碑である その間に小さく見える柵が忠治の墓石がある 利喜松は忠治の甥で弟友蔵の子である 彼が忠治の墓の碑を建立した 中央の鉄柵に囲まれたのが忠治の墓石 本来ここからは赤城山が見えるはずだが生憎湿度が高く全く見えなかったのは残念
左 忠治の墓 施無畏山善応寺 伊勢崎市曲輪町
此の寺にも忠治の墓がある 戒名は 遊道花楽居士 墓石の台座には横書きでその名も情深墳と彫られている 愛妾烈婦菊地徳(愛称お徳)が刑場から遺体の一部(首と右手足)を運びここに埋葬したと言う
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左中 左 大前田栄五郎の墓 前橋市大前田
ご存知群馬県は賭博が盛んな土地柄で侠客が多かった その代表が大前田栄五郎である 右側は田島家奥津城と彫られた真新しいい田島家代々の墓でその後ろのやぶの中に前橋市指定史跡の苔生した大前田栄五郎の墓石(左側)がある 栄五郎は田島久五郎の次男である
関東通り者と無宿者
稲作主体の石高制をとる幕藩体制のもと水田に不向きで畑作が主である群馬県は養蚕・生糸:織物による農業経済=貨幣経済が比較的早く発達していた 貨幣経済で生きる事を選択した上州農民はいやがうえにもその泥沼にはまった 米作と違い賃仕事ですぐに賃銭を手にすることが出来桑畑が野天の賭博場ともなり上州人の賭博好きが始まった 上州農村の異質な風俗を示すものが長脇差を帯び子分を引き連れ街道を闊歩したのが関東通り者である かっての定住農民が彼らは農を捨てた(不斗出者)象徴として合羽・三度笠・長脇差の独特のスタイルをとり幕府取り締まりにも拘らず街道筋を縦横無尽に闊歩した この通り者の名称が文化文政年間になると無宿者と呼ばれるようになった(参考群馬県の歴史 河出書房新社) この上州無宿者達を取り纏め親分子分の杯を取り交わしたのが有名な本名国定村の長岡忠治郎と大前田村の田島栄五郎である ともに村の豪農名主の出である 名月赤城山の「♪影か柳〜か 勘太郎さんか〜・・・」のあの勘助勘太郎の碑やノンフィクションの一本刀土俵入りの駒形茂兵衛の像もちゃんとありました ※不斗出者=フト村を出て居なくなる者 無宿者=戸籍の宗門人別帳から除籍された者
左和多利 W
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