赤城の子守唄 と勘助勘太郎親子延命地蔵尊 伊勢崎市昭和町
 駒形茂兵衛の地蔵堂と地蔵尊 前橋市駒形町
横綱をめざすが見込みがなく挫折、部屋を老い出されたよれよれ単衣の茂兵衛が水戸街道下総取手宿の旅籠安孫子屋に辿りつく そこの酌婦お蔦に励まされる 10年後渡世人(無宿者)となった茂兵衛はお蔦一家の危機を救い恩返しをする 一家を見送った茂兵衛は『駒形のしがねィ姿の横綱の土俵入りでござんす』と呟く 長谷川伸氏の偽作だがこれも上州駒形を主役にしてるのも上州気質のあらわれか  前橋市のJR両毛線にちゃんと駒形駅があります
  左和多利 X










左中 前橋刑務所 
県近代化遺産に登録されて網走監獄と並んで古典的監獄のイメージが人生劇場や侠客・やくざものなど多くの映画のロケに使われるという 前橋市のど真ん中にあるがいかにも伝統の無宿者の群馬県にふさわしく違和感は感じられない
 
昭和9年東海林太郎によって一世を風靡した赤城の子守唄 ここに来るまでは侠客と子守唄の関係がどうも分らなかったのが初めて理解できました 碑文によると忠治の子分板割の浅太郎が忠治の命により関八州取締りの目明しを勉めていた叔父勘助の首を持参しその子勘太郎をおんぶして親分忠治の待つ赤城山へ向かうというご存知忠治外伝ハイライトの泣かせ場面だったのだ この筋書きは新国劇作家行友季風原作によるものだが史実的には 『♪ねんねんころり寝んねしな・・・』どころか勘太郎まで父勘助もろとも惨殺したという その親子の冥福を祈るための親子地蔵である 忠治処刑後浅太郎はその非道さを悔いて信州野沢の時宗金台時に身を寄せ晩年は神奈川県藤沢の時宗本山遊行寺の僧として仏道に励んだという 明治26年75歳で没す 墓も遊行寺にある   右 剣聖上泉伊勢守信綱 前橋市上泉町  ここ大前田栄五郎の雷電山供養碑から数q西部にある上泉町の上泉城で生まれた信綱は新陰流の祖で日本剣道史上の最高峰として剣聖と呼ばれ柳生但馬守宗巌(石舟斉)等に伝えられ今日まで脈々と生きている(説明板) 上州には中世に系譜を置く剣術流派が多い 馬庭念流・法神流等も剣術正統派ではないが村落に奥深く埋もたいわば農民剣術であろう 通り者・無宿人の発生とも無関係では無いだろう