国指定史跡春日山城祉 標高180mで謙信の手紙には鉢が峰と書かれている
九月十三日夜陣中作 (右漢詩)
霜満軍営秋気清 数行過雁月三更
越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征
上杉謙信公
霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行の過雁 月三更
越山併せ得たり 能州の景
さもあらばあれ 家郷に遠征 を憶う
織田信長牽制の為天正5年(1577)陰暦9月13日の明月の夜能登畠山氏の七尾城を落とした時の詩 その後の手取川の合戦で織田軍は1000の兵を失う程の大敗を喫したのは有名な話です
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春日山は鉢が峰と呼ばれていたが天徳2年(958)に春日神社が創建されるといつしか春日山の名が生まれてきた 南北朝時代の初めから関東管領上杉家が代々越後の守護として府中(直江津)にいて国政を取り仕切っていた 春日山城は府中の要害として築かれ守護代の長尾家がこれを守っていた 戦国の世になると謙信の父長尾為景の時直江津の長尾舘にいた為景は危険をおもんぱかり守護の上杉定実等と共に春日山城内に移動した 以来為景とこれに続く長男長尾晴景・晴景の弟長尾景虎そしてその養子景勝が相次いで城主となたのです 上杉謙信の在城は約30年間に及びその間に著しく強化され難攻不落の要害となりました それは謙信の行動範囲は極めて広く越後国内は勿論信濃・関東・越中・加賀・能登に出陣している 遠くは相模の小田原城を包囲したこともあり関東に越年する事6回にも及び上洛も2回あり各々数カ月間も近畿に滞陣しました 謙信はその留守中の敵進入に備えての城の強化でした 慶長3年(1598)上杉景勝が秀吉の命により会津に転封されると次に堀秀治が城主になると間も無く2代目堀忠俊は不便な山城から湊に便利な平城直江津川東に福島城を築いてここに移り春日山城は廃棄されたのです➡ |
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➡ 慶長12年(1607)のことでした(春日山城めぐり 春日山神社) そして3年後堀忠俊が改易されると城主は徳川家康の6男松平忠輝が赴任したが間もなく高田に壮大な高田城を築いて福島城も廃城になったのです どうも波の音や川の音がうるさくて眠れないという忠輝の我儘かららしい
越の菅原 Ⅸ
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