上 林泉寺山門 謙信公建立だが江戸末期の地震により焼失 大正時代に再建されたもの謙信公直筆の春日山・第一義の金色の大額が目を見張る
上中 林泉寺 明応6年(1497)謙信公の祖父越後守護代長尾能景が亡父重景公の17回忌に当り長尾家の菩提所として創建された それから40年春日山城で生まれた能景公の孫上杉謙信公は6世天室光育大和尚・7世益翁宗謙大和尚に学問と禅の教え受けた 跡を継いだ上杉景勝公の時上杉家は会津に移封となり代わって越後領主となった堀家次いで高田城主松平家・榊原家となりそれぞれの菩提寺となった 謙信辞世の句 四九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒 |
下左 上杉謙信公の墓 下右 川中島合戦戦死者供養碑 |
林泉寺は上杉謙信だけの菩提寺かと思っていたが実は右にあるような位置に各お墓があり菩提寺でもありました 左上が榊原政岑・榊原政賢・左下が松平綱賢・松平土佐さま・右下が堀秀治・堀秀重・堀秀政・右端が長尾為重・長尾能景の墓の配置になっていた
右 大槻磐渓翁公春日山懐古漢詩碑
春日山頭鎖晩霜驊騮嘶罷有鳴鶉憐君独賦能州月 不詠平安城外花
春日山頭晩霞に鎖さる驊騮嘶き罷んで鳴鶉有り 憐れむ君が独り
能州月を賦して平安城外の花を詠ぜりしを
尚儒学者大槻磐渓の父は仙台藩医大槻玄沢(岩手県水沢市)で三男大槻文彦は国学者で国語辞典言海の著者で有名です 西の頼山陽か東の磐渓かとも呼ばれた人物だ
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越の菅原 Ⅷ
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