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今から凡そ700年前の鎌倉時代時の執権北条時頼が出家姿に身を変えて諸国巡歴の折り当地に辿り着いたが生憎の大雪にあい一軒の貧しい農家に一夜の宿を求めた 宿の主人は一族の者に領地を奪われてこの地に至り農業をしていた佐野源左右衛門という武士だった 薪さえも不足してる彼はみすぼらしい旅僧の為大事にしている梅・松・桜の鉢の木を焚いて暖を取りもてなした 後に時頼が諸国の軍勢を呼び集めると常世はやせ馬に鞭打ちいち早く馳せ参じたのです 時頼はあの時の忠節を賞し奪われた本領を取り返した上鉢の木に因んで三箇の庄(加賀の梅田・上野の松井田・越中の桜)を与えたという故事による(佐野市説明板)
時頼の回国伝説である謡曲鉢の木では「落ちぶれたりと言えどもこの源左右衛門 鎌倉殿の御家人として もし幕府に一朝事あらば 千切れたりとも具足を付け 錆たりとも薙刀を持ち 痩せたりともあの馬に乗り一番に鎌倉に馳せ参じ一命を投げ打つ所存でござる」と いざ鎌倉! の名せりふになる
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左 藤原秀郷公墳墓(佐野市新吉水町 唐沢神社管理) 直径35.6m 高さ5mの墳基 藤原秀郷は上野国(群馬県)の赤石で生まれた 天慶3年(940)2月朝廷に背き東国の独立の乱を起こした平将門を平貞盛と協力して討ち取った その功績により従四位下に叙せられ武蔵国(東京都・埼玉県)と下野国(栃木県)の国守に任ぜられた➡ |
➡正歴2年(991)9月没してここに葬られたと伝える(佐野市教育委員会説明板) 伊勢崎市にも彼の墳墓があるが1100年前の歴史的人物の前に立ってる事が例え伝承でも感動しますネ
安蘇の河原 Ⅱ
左 安蘇野の原か
岩船山より
佐野市と遠く渡良瀬川と遊水地が見える
巻14-3404の意味は
上毛野の安蘇に生えてる麻を腕一杯抱えるようにこの娘をしっかり抱きしめても未だ満足できない いったいどうしたらいいのだろう |