左 左下2つの3枚の画像こそ日光開山発祥の地なのです ここには先ず観光客は足を運ばない石柱には天平神護2年日光山草創四本龍寺とある
下左 四本龍寺紫雲石
勝道上人が礼拝しているとこの石の付近から紫色の雲(煙)が立ち上り男体山の方へたなびいたという そこからこの石を紫雲石と呼ばれる そしてこの地を四本守護の霊地として四本龍寺を建てたという日光発祥の地であり奈良・平安時代は日光の中心地だった
下右 県指定史跡四本龍寺館音堂と三重塔 天平神護2年(760)大谷川を渡った勝道上人一行は此の地に草庵を結び四本龍寺を建てた 日光二社一寺の建窓物の中で素木造り 云わばここが日光発祥の地なのです
 
右 板垣退助像
何も戊辰会津戦争の指揮官板垣憎くて後ろ姿を撮った訳ではない 正面からは高すぎ木の枝が邪魔な上逆光の為である 神橋のたもと天海大僧正と向かい合って東照宮に向かって立っているのです 何故彼がここに居るのか?彼が戊辰戦争での日光神領の消失を防止しので建立されたというのです 思うに徳川随一の忠臣会津藩が家康御廟を焼く訳はないから官軍諸藩特に長州藩が徳川憎しから火をつけるのを止めたという事だろう 当時幕臣の大鳥圭介が御廟を楯に立て籠もっていたもいう 彼は土佐藩士の従一位勲一等伯爵で 板垣死すとも自由は死なず は有名 戦後の50銭政府紙幣と100円日銀券には彼の肖像を使用している
右端 甲良豊後守宗広
三代将軍家光の代に始まった東照宮の大造営の設計・施工を取り仕切た幕府作事方の大棟梁である 彼の指揮のおかげで今日の華麗なる東照宮が僅か1年5か月で完成したのです 輪王寺の駐車場内にあるが誰一人この像に目をくれ人はいない 目指すはキンキラキンの陽明門なのです 縁の下の力持ちとは彼の事でしょう

  
         二荒の山 其のW
 
国重文御仮殿 東照宮本殿改修の際は御心霊をこの仮殿にお移しす御仮殿があるのはここ東照宮だけである 尚日光神領内には国宝・国重文合わせて103もあるそうだ この建物の左側んは東照宮に入るお馴染みの石鳥居と入場料1300円の門がある 御仮殿に来られれる観光客はまばらである  蟄居を解かれた会津松平容保は明治13年(1180)ここ日光東照宮宮司とったのは以て瞑ずべきであろうか 正三位に叙任され明治26年東京小石川の自邸で肺炎のため死去した 尚彼の六男恒男の長女勢津子が大正天皇の第二皇子秩父宮雍仁親王との婚礼が取り行われ会津松平家と皇族の結婚は朝敵会津藩の復権となった