秋の田の いなほせ鳥の こがれはも このはもよほす 霧やそむらん 壬二集 藤原 家隆 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ 後選和歌集 天智天皇 秋の田の かりほの稲の ひつち原 長くもあらぬ 世を嘆くかな 夫木和歌集 太宰大弐高遠卿 |
国指定史跡秋田城復元外郭東門 高清水公園 秋田市寺内 天平5年(733)に山形庄内から移転した 天長7年(830)には大地震で大被害(類聚国史)を被る 又吾妻鏡には「大河兼任は河北・秋田城を経て大関山を越え陸奥国多賀城にでた」と大河兼任の乱に載せている(参考 ウイキペディア) 秋田城(城柵宦官遺跡)は国史跡である 奈良から平安時代にかけて秋田にに置かれた地方官庁で政治・軍事・文化の中心地で最北の城柵であった 天平5年(733)ここ高清水に遷された当初は出羽の柵と称されたが天平宝字4年(760)ごろから秋田城と呼ばれた 奈良時代には出羽国の国府で津軽・渡嶋・他大陸の渤海国との対外北方交易や防衛・監視の拠点となる 878年(元慶2年)には俘囚による大規模な反乱(元慶の乱)により城が占拠されるという大事件に見舞われる 国司による苛烈な搾取に耐えかねた蝦夷の乱によって柵城が焼かれた事を裏付ける焼土炭化仏も発掘されている 発掘によって出てきた珍しい物に胞衣壺がある 胞衣とは胎盤のことで胎盤を入れた壺の事である その中に生まれた子の胎盤と通宝5枚が納められていたのです 然も胎盤のDNA鑑定の結果血液型B型の男子であることも分かったのです その他数多くの資料が秋田城址歴史資料館に展示されている |
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上の歌の秋の田は秋田市を詠んだわけではありませんし秋田が歌枕の地でもありません。秋田は本来齶田です。秋田を載せたく拝借しただけですのでご承知置きください。秋田の初見は日本書紀斉明天皇4月4日に「齶田(あぎた)」とあり、又続日本紀733年(天平5年)12月26日条に「出羽柵遷置於秋田村高清水岡」とある。殊に日本書紀の記述は実に新鮮である。「阿部臣率船一百八十艘、伐蝦夷、齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降、於是、勅軍、陳船於鰐田浦、鰐田蝦夷恩荷、進而誓曰、不為官軍、故持弓矢但奴等、性食肉故持、若為官軍、以儲弓矢、鰐田浦神知矣、将清白心、仕官朝、仍授恩荷、以小乙上」とある。齶田は秋田 渟代は能代であり齶田浦は秋田湾で男鹿船川港から雄物川河口の秋田湾の辺り、そして齶田浦の神とは男鹿の赤神社・真山神社・土崎明神社・秋田村高清水岡の古四王神社の何れかだろうと言われている。蝦夷の恩荷は既にこの4っつの神のうちどれか一つを神として崇めていたのだ。然し何と言っても阿部引田守比羅夫なしに古代秋田・日本海は語れないのです。内陸陸奥は坂上田村麻呂 海上出羽は阿部比羅夫だが田村麻呂ほど何故か知名度は低いのだ。然し明治時代初頭北海道での比羅夫人気は抜群でした。北海道を最初に走ったSLは「義経号・弁慶号」だが3代目は「比羅夫号」なのです。そして今は無き青函連絡線の第一号は「比羅夫丸」と「田村丸」なのです。そして今も北海道羊蹄山の麓には倶治安・ニセコの間に「比羅夫駅」が生き続けてるのです。勿論出羽・津軽・越に多い古四王(越王・高志王)神社は越国守阿部比羅夫の祖で北陸道開拓者で阿賀野川から会津に抜けた四道将軍の一人大彦命を祀る事は論を待たない。彼により出羽・津軽・北海道の歴史がスタートするのです。中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我蝦夷・蘇我入鹿をクーデターで倒し中央集権体制が確立した大化の改新(645年)以降大和朝廷は積極的に領土拡張政策を開始した時、阿部一族は中央政府の重要な位置しめていたらしい。続日本紀(養老4年・720年)に比羅夫の子宿奈麻呂の死亡記事があり「大納言正3位阿部朝臣宿奈麻呂薨ス。後ノ岡本朝筑紫大宰大錦上比羅夫乃子也」とあり朝鮮白村江の海戦(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた後も九州大宰府の長官として対外交渉の第一線に立っていたようだ。彼は越土着の豪族と云う説と大和国城上(しきのかみ)郡辟田(比気田・ひけた)辺りと云う説があるが定かではない。 | 又奈良桜井市には阿部と云う地名や安倍寺史跡公園・日本三大文殊(山形県高畠町亀岡文殊堂・京都府宮津市切戸文殊堂)の一つ安倍文殊院等があり人気の高い同族の安倍清明氏の出身地とされている。皇極天皇没後斉明天皇(594年〜661年)の時比羅夫は越国守として歴史に現れる。その655年(斉明元年)7月「難波の朝(みかど)に北(越)の蝦夷99人東(陸奥)の蝦夷95人を饗応し柵養の蝦夷9人、津刈(つがる)の蝦夷6人に叙勲を与えた」と日本書紀にある。これは比羅夫の第一回遠征(658年斉明4年・上記)の3年も前の事であるのには驚くばかりだ。秋田蝦夷恩荷が比羅夫に降伏する3年も前に既にそれよりも遠い津軽蝦夷がすでに大阪・難波に招待されているのである。つまり恩荷が素直に降伏したのは既に津軽蝦夷から大和朝廷の文化と軍事力の高さを知らされていたのかもしれない。そして最後は有間浜にて渡島(北海道)蝦夷も饗応して土産を持たせて返している。有間(ありま)浜とは十三湊のある江流末(えるま)郡の事ではないかと思われるのです。こうして比羅夫は7月4日200名の蝦夷を引き連れて都へ凱旋した。朝廷は彼等に饗応と叙勲を与えている。能代郡大領『沙尼具那』に小乙下、小領『宇婆左』に健武、他2名に位一階 津軽郡大領『馬武』に大乙下、小領『青蒜』に小乙下他2名に位一階とある。誠に生々しいのです。そして大2回目の大遠征が659年斉明5年3月に行われた『この月に、阿倍臣を遣わして、船師一百八十艘を率いて蝦夷国を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷241人、その虜31人、津軽郡の蝦夷112人、その虜4人、胆振?(いぶりさえ)の蝦夷20人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗たまい禄を賜う。即ち船一隻と、5色の綵帛(しみのきぬ)とを以って、彼の地の神を祭る。肉入篭(ししりこ)に至る。時に問菟(という)の蝦夷「胆鹿嶋・莵穂名、二人進みて曰く、『後方羊蹄』を以って、政所とすべし』と云う。胆鹿嶋等が語にしたがいて、遂に郡領を置いて帰る。陸奥と越との国司に位階各二階、郡領と主政とに各一階授く」とある。鰐田の神に船一艘を始めいろいろな品物を奉納している。そして第3回遠征は6年3月で「3月に阿倍臣を遣わして粛慎国を討つ」とあり蝦夷とは違う異民族を明確にしてる。 所で阿部比羅夫のルーツ程ほど面白いものはないでしょう。紀元前7世紀には大和・摂津・難波あたりには蝦夷の祖安日彦・長脛彦兄弟が支配していた。 (次頁へ)
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