安日彦が住んでいたので安日野と呼ばれていた。現在も大阪府に阿倍野区があるのはそのためでそこに突然紀元前660年に日向族神武天皇が東征を開始した。一時は神武天皇を追い返したが3本足のやた烏に導かれて熊野灘から吉野の山を越えて背後から侵攻してきた。流石に長脛彦は討ち取られたが安日は北海の浜東日流(津軽)へ逃亡日乃本国を建立したと言う。西の大和国 東に日乃本国(日高見国)が両立したのだ。青森県東北町に「日本中央」の碑があるのはそのためだろう。「ひのもとまなか』と詠む。何と壮大なる神話でしょう。陸奥以北千島列島までの壮大な国の中央がその謎の碑なのです。そしてその系図が又壮大なのです。2つあって安日系として 安日王-安国-安東-致東-長国-安尭-国東-頻良-頼良-頼時-貞任-高星丸、孝元天皇系として孝元天皇-大彦命-安倍武渟川別命-大稲荷命-火麻呂-安倍臣摩侶-馬子-目臣-大鳥臣-倉橋麻呂-益麻呂-御主人-廣庭-比羅夫-安麻呂-小嶋-家麻呂-富麻呂-実良-隣良-忠良-頼良(時)-貞任-高星 そして安東系図には 貞任の子高星-尭恒-貞季-尭季-愛季-尭勢-貞季-盛季-康季-義季-政季-忠季-尋季-舜季‐愛季-実季(初代秋田氏)-俊季-・・・とある。いかがでしょう。秋田沖に現れた阿部比羅夫は安日・大彦命・武淳川別命等の末裔であると共に、後世の前9年の役で頼義・義家に滅ぼされた安倍頼良・貞任の祖先であり、さらに十三湊秋田安東氏や秋田氏の祖となり秋田のみならず福島県三春町には明治まで藩主とそして存在し、東京には末裔元子爵一季氏が在住してると言う。このように奥羽全体にその影響を及ぼした比羅夫は凄のです。この様な歴史背景を思い浮かべながら秋田マリンタワーから眺める景色は又格別です。尚この歌は「菅江真澄遊覧紀(平凡社ライブラリー)の秋田のかりね」に載っていたもので秋田が歌枕の地と云う訳ではない。(平成18年1月10日)(参考 秋田「安東氏」研究ノート 無明出版社 海と周辺国に向き合う日本人の歴史 郁明社 秋田市史 秋田県史 秋田県不思議事典 新人物往来社 秋田県の歴史散歩 ㈱山川出版社  街道を行く 朝日新聞社)

 国道7号バイパス臨海大橋からみる秋田運河(旧雄物川河口) 奥の森が秋田城のある高清水岡 そして右側一帯の八橋地区が➡右へ

上 土崎港 安東氏時代北国七湊の一つとして栄え今でも越後屋・越中屋・加賀屋・能登屋・若狭・金澤の姓を名乗る人が多いのです  遥か沖には男鹿半島で左が本山右が寒風山です 旧雄物川河口である 比羅夫もこの河口に立ち寄ったはずだ  江戸時代ここ土崎湊は秋田城下以上の賑わいで古川古松軒の東遊雑記には廻船問屋12軒 町屋は1300余軒程あり年間700前後の船が出入りしたという つまりここが日本書紀にある齶田浦なのです ここに阿倍比羅夫は180艘の大船団で停泊したところである そして恩荷が大船団に驚いて比羅夫と面談した所である  同一場所からの日没前の土崎港と男鹿半島  

左から ➡元慶の乱で秋田城を捨てた官軍が一時陣を敷いたとされる屯営 またここ八橋には延喜式にある「秋田 駅馬十匹」とある駅があったとされている『三代実録』にある秋田屯(営)跡ではないかとされている



秋田 其の2



➡不穏の空気は的中し元慶2年(878)出羽介・秋田城司良岑近の苛政に対する夷俘が秋田城放火の報告が藤原興世によって都へもたらされた 有名な元慶の乱である こうしてみると河口・河川の直ぐ隣に秋田城がありその立地の良さと戦略的正確さには感心する 又高清水岡の森の左側一帯の市街地が将軍野と云う字名があり往時の軍人達の居住跡らしい地名だ

100万$の日本海の日没 土崎港の日没
 高清水岡の森 崎ポートタワーセリオン100mの展望台 続日本紀天平5年(733)12月26日条に『出羽柵遷置於秋田村高清水岡』とあり以前は山形最上川河口辺りにあったもの(現城輪柵?)が北進した 大和朝廷最北の柵で補給の伸びきった対蝦夷の前進基地として渟代・津軽・渡嶋・そして足下の秋田内陸上津野(現鹿角)・火内(現比内)・椙渕(現阿仁)等の蝦夷に備える前線基地であった 建設後30年経過したが余りにも北に偏り過ぎ廻りは蝦夷ばかりで味方もすくなく五穀もままならないため国司が『秋田は保ち難く河辺は治めやすし』『当時の議河辺を治するに依れり』(780年・宝亀11年続日本紀)と国府の南遷を奏上している➡