土崎神明社 
ここは安東氏湊城跡です 恩荷が云った「齶田神に誓って攻撃の為の武器は持っていない」と比羅夫に話していた齶田の神はこの神ではないかとの説もある なおここの神明社祭りの曳山行事は国指定重要無形民俗文化財に指定されている
  土崎湊は日本書記斉明天皇4年(658)にある齶田浦に比定され土崎神明社は元湊安東氏の居城湊城跡と比定されてる下へ

国指定史跡 平田 胤篤の墓地  秋田市手形大沢
荷田春光 賀茂真淵 本居宣長等
と共に四大国学者で尊皇攘夷の理論的支柱となる  尊王思想から佐竹潘は奥羽列藩同盟を脱退唯一官軍について戊辰戦争を戦ったが維新後はその評価は低く他の東北諸藩同様白河以北一山百文の扱いを受けている 墓は恩師の本居宣長の伊勢松坂の方向をむいているとあ  

石田三成の墓 秋田市八橋本町
秋田市市役所の近く八橋本町に各種運動競技場の隣にある鄙びた帰命寺になんと伝承石田三成と称される墓があるのです 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で破れた三成は京都六条河原で斬首されたのにである 日本人特有の判官びいきのなせる業であろうか? 彼は伊吹山から北国を抜け会津へ逃れ更に出羽の米沢直江兼継で形勢をみて慶長2年(1602)に佐竹義宣を頼り秋田に入ったと云う 又佐竹潘の調書には帰命寺の開山木食唱岳長音上人は三成の弟で佐竹氏に招かれて当地に来た者で弟の墓であるとも言う それにしても秋田大館には真田幸村の墓があり 米沢の直江兼継や佐竹氏等豊臣方の敗者への同情の伝承であろうか
下 石田三成の墓 通りがかりの方に聞いたがどもはっきりしない 上の内のいづれかとも言う 

秋田城址公園の高清水霊泉入口碑と由来書き 
古四王神社の前の旧国道を横切り細い道を菅江真澄の墓に行く途中に突然傍らにある
 
往昔阿倍比羅夫が秋田の浦に下向の際越の王大毘古命ここ高清水に祀られたとき突如として霊泉が湧き出たとある 胡四王神社のお手洗い水に使用され周囲の清流には山椒魚も生息してる と書いてある
上から 安東氏の祖はあの安倍貞任の子高星(たかあき)でその子尭恒(たかつね)が寛治年間(1087~1093年)青森県に藤崎城を築城して安東氏の基礎を創る その子貞季(さだすえ)十三湊を手中にし其の孫愛季(よしすえ)本拠を十三湊福島城に移す  南北朝対立時代に入るとその間隙を縫い十三湊安東氏が南下を開始し応永年間鹿季の時秋田湊(土崎)に侵入し拠点を構えた湊安東氏となった 其の居城跡がこの明神社である 一方鹿季の兄下国安東盛季は永亨4年(1432年)糖部の南部氏との抗争に敗れた一旦北海道松前に逃れた その後時期は定かでないが能代の檜山郡に定着して檜山安東氏となる 両安東氏の統一は檜山安東実季が湊安東道季を湊合戦で追討して統一した 安東氏は康季以来代々日乃本将軍と称され古代に発祥した日乃本(陸奥)第一の由緒ある家名を堅持し蝦夷地域をも支配した栄誉ある伝統を持つ家柄を誇る
 湊城跡にある湊安東氏の顕彰碑
 佐竹義宣夫人正洞院の墓地  佐竹氏菩提寺天徳寺は国指定重要文化財であるが彼女の墓地は粗末で胤篤の墓地の下の藪の中にある 彼女は下野国烏山城主那須資胤の三女で19歳の時16歳の義宣と政略結婚させられたが僅か5年後の24歳の若さで謎の自害したと云う悲劇の夫人だった 又義宣の母は伊達輝宗の妹政宗の叔母さんである 家康は彼を評して「今の世に佐竹義宣程律儀な者は見た事が無い 然し余り律儀すぎても困ったもんだ」ある
秋田 其の3