大彦命が先ず武甕槌神を奉祀し齶田浦の神とする 次いで阿倍比羅夫将軍が下向の折その大彦命を合祀して古四王として崇めたとしている 大彦命は開化天皇の兄で崇神天皇の御世四道将軍の一人として北陸の賊を平定しあまねく皇威を広め民を導き教化しその功績頗る多く其の功を以って御名を高志王と賜ったとあるが  そうすると比羅夫の前に大彦命が出羽を征服していた事になり史実は少しずれてくるがこれも古代歴史のご愛嬌でしょう 秋田城はこの神社の直ぐ上にあり北辺の警護の柵と鎮護の神社と一対をなしていた事だろう この隣には田村麻呂を祀る田村神社もあり陸海の両将軍が蝦夷警護の根拠地となった 近くには高清水霊泉があり比羅夫将軍の伝説があちこちにある 古志王信仰は地域型なので小堂や祠・自然石で立派なお堂は少ないらしい 其の中での三大古志王と云うのは秋田高清水岡と越後五十公野(いみじの)の古四王・会津喜多方市慶徳町の古四王神社であるが 戦前は秋田で唯一の国幣小社となるほど社格は現存胡志王中1番高いのです
 
古四王神社前にある田村麻呂を祀る田村神社

高清水霊泉 
続日本紀天平5年(733)の条に「出羽の柵を秋田高清水岡に遷す」とあるから1300年以上前から湧きでてる事になる ここを下ると伽羅橋とか香炉木橋と呼ばれる橋がある 往時は香木の伽羅で出来ていたと云う

          秋田 其の4
    
 
高清水岡古四王神社 秋田市寺内児櫻
阿倍比羅夫は越(高志)の国(石川県・富山県・新潟県を含む現北陸一帯)の国主なので古四王なのでしょうか この神様は記述も色々だ 越王・胡四王・胡志王・高志王・古四王・古志王・巨四王・小四王・腰王・・・だがそれだけ地方・地域密着の底辺の人々の信仰を集めたに違いない 恩荷の云う齶田浦の神との説もある
古四王神社氏子には四足二足・顔の中と言う厳しい不思議な禁忌が課せられていた 前者は鳥獣肉に関するものは一切口に入れず飼育してもよいが売った金は穢れているので財布を別にして食費のみに使用したと言う 又後者は元旦の午前0持からは氏子は7日間の精進に入り食器は別にして酒肴は一切口に出来ず親戚を含め他の集落の煮炊きした物は一切口にせず交際も出来ない 12月20日以降に出産・葬式のあった人とは交際しない等である これは田村麻呂が古志王の神に蝦夷戦勝の祈願によると言うのだがそれ程蝦夷征伐には手を焼いたと言う事か
右上 菅江真澄翁の墓(秋田市史蹟第1号) 
秋田をこよなく愛した者の墓地だ
 胡四王神社境内にある菅江真澄の歌碑
 
ひろ前の 雪のしらゆふ そのままに 
手まくるこしの おほきみのみや 

とある 歩く・見る・記録するという人生を送る

菅江真澄は、江戸時代の宝暦4年(1754)、三河国(愛知県東部)に生まれました。何故か彼は故郷を語ろうとしなかった 30歳ころに三河を離れ信濃国に旅立ちました そのあと越後から庄内を経て秋田に入り津軽・南部・仙台・蝦夷地・下北半島などを巡り 48歳のときに津軽を経て再び秋田へ入り亡くなるまで秋田領内を離れることなく今の秋田県内のほとんどの市町村に足跡をしるしています 彼は旅日記・随筆・秋田藩地誌等200冊に及ぶ出版をし其の内77冊は国重要文化財に指定され陸奥の歴史民族風俗の第一級資料となっている