藤原清衡1056〜1128年 |
清原家衡 ?〜1087年 |
金沢柵中腹より見る横手盆地
8月下旬の水田風景 ここに数万の源氏の兵士と白旗がひしめきたなびいたのです |
上 金沢柵の裏を流れる厨川
鎌倉権五郎景正がこの水で目を洗った そのためここで捕れるかじかはめっこかじかと呼ばれ片目だと云う
左下 金澤の柵全景
一見して緩やかにみえるが登ると意外と急峻で難攻不落である 義家は武神とも呼ばれるが2度も同じ失敗をしている 冬の陸奥を甘く見て一度目は河崎柵の黄海の戦い そしてここ金澤柵の後3年の役である 名将なら同じ過ちはしないものだが陸奥の冬を甘く見てたきらいがある 義家・義光兄弟と清衡連合軍が足掛け2年も落とせなかった所だ いまでも冬の観光の売り物はかまくらの豪雪横手です 関西生まれの義家・義光にとって往時の積雪は正に冬将軍による敗北だったでしょう 陸奥で義家の人気は高い この戦後恩賞を朝廷に申し出たが私闘とされ恩賞どころか陸奥守を解任された 論功行賞は私財を投じて部下に報わざるをえなかった この義理堅さが後年頼朝の旗揚げに役立つのでる
大曲市には面白い伝説があるのです 市内の松山城跡は安倍貞任の居城跡だと言う 更に義家と貞任の娘との悲恋物語まであるのです 義家との仲を怒った貞任は愛娘を殺してしまったと云う 大曲のの村人はその娘の死を悼みその霊を慰めるた姫神山に供養塔を建てたと言う 市の西部にある姫神山(大平山・387.6m)がそれである ここは後三年の地であり貞任は前9年の役で厨川柵で死んでるから有り得ない話だがそれにしても伝承に残るほど義家と貞任は良きライバル同志だったのです だから『衣の館はほころびにけり』『年を経し 糸の乱れのの 苦しさに』と互いに心通じるものがあったのでしょう |
軍神義家が敗れるのは安倍氏との黄海の戦いに次いで2度目が沼の柵だがここ金沢柵も危うかったのである
金澤柵公園にある納豆発祥の碑
八幡太郎義家・新羅三郎義光兄弟と清衡連合軍は家衡軍と膠着状態にあった 食料として馬に俵に入れた煮豆を積んでいたがその内長引く戦況と馬の体温によって藁についていた納豆菌により豆に糸が引き始めたのです つまり納豆の始まりなのです 納豆は茨城の水戸が発祥という人もいるが水戸佐竹潘の佐竹氏の祖先が新羅三郎義光である事を考えれば水戸が納豆名物になるのも至極当然であろう
平鹿 其の4 |