金沢八幡宮  金沢柵内
後三年の役終了後義家が出羽鎮護のため奥州初代藤原清衡に命じて京都石清水八幡を勧進して創建したという 江戸時代になると源義家の弟の源義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主として入府したので熱く信仰された

平将門の三女瀧夜叉姫塚  
➡当時関八州は桓武天皇による蝦夷作戦による強制的徴兵と物資調達により中央政府には不満に満ちていた 時に天慶2年(939年)中央政府からの独立を掲げ新王を宣言して立ち上がった将門への人気が遥か陸奥まで将門伝承を創ったたのでしょう
 文献上には明確に記載されてるが所在が確定していない雄勝柵と 一切の記述に載っていないにもかかわらず国政レベルで建設された確かに存在している柵(地名をとって払田・ほったの柵)はともに古代の夢を我々に与えてくれる素晴らしい遺跡である 和名類聚集に「国府ハ平鹿ニ在リと載っている 続日本記にも「宝亀の始め国司申す 秋田は保ち難く河辺は治め易し」「当時の議河辺を治するに依れり」とある 河辺・雄勝・払田それぞれがロマンの柵である
 左 国指定史跡払田柵跡
秋田県大仙市払田・仙北郡美里町にまたがる古代城柵で9世紀初頭から10世紀後半まで存続した 道路の下(青の四角)にも木柵がありづっと連なっている この下に払田の柵が眠っていますと書れてる
 1902年200ほどの木柵が発見されても燃料に使われたり下駄に加工されて販売されていたという

義家・義光兄弟を祀る兜八幡と兜石・兜杉 金沢柵
この画像の左端の屋根の下に見える枯れた杉の大きな根幹と石のことである 義家が凱旋した勝利の記念にここに兜を埋め其の上に石を置き藤原清衡が記念に杉を植えたものと云う 然しこの杉も昭和58年失火により焼失してしまったという
 上 鎌倉権五郎景正の功名塚  金沢柵内
後三年の役で僅か16歳で初陣し素晴らしい手柄を立てた鎌倉権五郎影正は義家の命により敵の屍をこの地手厚く埋葬し弔いのためその塚の上に杉の刑を植えたのです 900年以上の歴史を物語る巨木だったが昭和23年火災にあい根元の幹のみを残した無残な姿で焼失してしまった その幹の太さが往時の歴史を物語っていて影正巧名塚として今に残るのです
右上 平将門の三女瀧夜叉姫塚
仙北郡田沢湖町生保内 平鹿から離れてはいるが田沢湖の麓生保内に平将門の伝承があるとは晴天の霹靂でした➡

右 瀧姫塚姫者平将門之女也
と彫られている
     平鹿 其の5
  

柵政庁への登り口  大仙市払田字仲谷地
奈良県立文化財研究所の年輪年代法による年代測定では801年に伐採された材木であることが判明した これにより桓武天皇時代における坂上田村麻呂よる陸奥の胆沢城・・紫波城・徳丹城等と一連ものであることが判明した 嘉祥二年正月�十日と記された木簡も出てきた