本多上野介墓と彫られているが是は明治43年になってから立てられた物である 江戸時代には幕府に遠慮して墓石はなったという

正純の墓の傍らにある 律儀な宇都宮の市民が過っての城主に宇都宮城復元の報告に建てたのだろう 横手市城南町  宇都宮吊天井事件  ここ横手には徳川家康の側近として活躍した本多正純親子の墓があるのに驚いた 徳川家康存命中は寵臣の正純は家康が死ぬと二代将軍秀忠の老中に列するが家康時代からの宿老をたのみ権勢を誇り秀忠や其の側近の怨みを買うようになった そして下野小山潘3万3千石を2万石加増して5万3千石としさらに3年後1619年(元和5年)に家康の遺命だとして宇都宮潘15万5千石城主となり益々側近の怨みをかった ➡下へ

嗚呼玉杯に花うけての楽譜の碑
作曲家 楠 正一
横手市雄物川町 館合小学校旧薄井小学校)

角館満松山天寧寺  仙北郡角館町上新町  會津天寧寺は葦名盛信が天安4年(1449)に創建された芦名氏の菩提寺して隆盛を極めた 角館に移封された佐竹義勝は寛永元年(1660)は横手市の正平寺を招いて会津天寧寺を本寺と同じ名称として天寧寺を開山した 会津天寧寺には近藤勇の墓地もあるし又京都にも天寧寺がる 承応2年(1653)3代千鶴丸が天寧寺に参拝に来際踏み石から転落して死亡して芦名家が断絶したのは皮肉ではある
平鹿 其の7






 旧城主芦名家墓地
天寧寺門前にある旧城主 葦名家墓地とある角館と福島は意外と関係が深いのには新発見です 武家屋敷だけが角館ではないので

本多上野介正純親子終焉の地とある 横手城の下にあるがこの辺りは城南町だが別名上野台と呼ばれているようだ
上から 宇都宮は家康を祀る日光東照宮を守る重要地点にある家康の七回忌で秀忠は日光東照宮に参詣するので正純は宿泊をもてなす城の改築をしたが本丸石垣改築や寝所の縁の下高さ70cm問題そして釣天井事件等の秀忠暗殺の噂が怨み辛みのある人物から実しやかに流されたため往路は一泊したが帰りには宿泊しなかったのです こんな事から1621年(元和8年)11の罪状をもって突然幕府の命で本多正純は改易され所領をとり上げられた 当初は出羽由利郡に5万5千石を与えられたが彼は私には身に覚えが無い事と堅く固辞したため秀忠の怒りを買い秋田佐竹潘に預けられ横手へ捨扶持1000石で流されたのです 正純は居室がすべて釘で固定され外を一切伺えない部屋で一生を終えたという(73歳) これを宇都宮吊り天井事件と云う  彼の辞世の句と言われるのが
陽だまりを 恋しとおもふ 梅もどき
         日陰の赤を 見る人もな

草深い焼そばの里横手の町の片隅にある忘れられた歴史実話です 正に歴史の魅力はつきませんね  本多親子の位牌は葬儀の執り行われた菩提寺大儀山正平寺(横手市田中町)にある  
 平鹿郡雄物川町にある第一高等学校寮歌 嗚呼玉杯に花うけての楽譜の碑 はこの町出身の楠 正一が明治35年彼が一高2年(現東京大学教養学部)の時作曲したものでる 彼の卒業した薄井小学校の跡地建っている 彼はその後大曲尋常高等小学校を優秀な成績で卒業後東京の私立日本中学に入学した 彼はここで運命的出会いをする 同校に『嗚呼玉杯に』の作詞者矢野勘治・一高東寮委員の松野 松太郎・『緑もぞ濃き』の作詞者柴硯人等は彼の一級上でした 才能は互いに共鳴しあうものなのでしょうか?  彼の姓からして楠正成の末裔であるというのは間違いないでしょう この碑の楽譜は見慣れた音符では無くアラビア数字なのです 音楽については全く無知だがこの曲はファとシを抜いたヨナ抜き(4と7ぬき)と云うのだそうです ヨナ抜きノメロディは日本情緒を醸し出す特徴があるというのですがそれにしても明治の最中にこの田舎からも東大に入学する凄さこそ素晴らしい 本来頭脳は時代と地域には無関係らしい  天寧寺にある葦名藩主と正室・側室2名他数基の墓石がある 伊達政宗に敗れた會津葦名義広は実兄義宣を頼り常陸へ戻るが関ヶ原で中立を維持したため佐竹義宣は慶長7年(1602)父義重等と秋田久保田藩に移封されるが同時に義広(重盛)は義勝と名を改め元和年間(1615頃)此処角館1万6千石に移された 当時の家臣の青柳家・針生家・河原田家等は會津に多くある姓であり現在の国指定重要伝統的建造物群保存地区となているのはご存知の通りである 名門角館葦名家は三代で断絶し後に佐竹北家が継ぐことと成る 尚佐竹北家の菩提寺常光院である