大館市二井田にある錦神社 御承知の様に3代秀衡の遺言に逆らって義経を討った軟弱4代泰衡は頼朝の奥州征伐により平泉は炎上し敗走して蝦夷(えぞ)が千島へ逃亡の途中ここ家臣の河田次郎の贄の柵に依ったが彼の裏切りに会い殺されてしまった その首は検分のため頼朝のもとに運ばれたが切り離された胴体だけが転がっていた 下へ

 贄の柵跡近くの安藤昌益生誕の地の碑
 「天は人の上に人を創らず人の下に人を創らず」と云ったのは福沢諭吉だがその凡そ150年前の封建社会の真っ只中の江戸時代中期に安藤昌益「身分の高いもの低いものなどと言う考えは間違っている 将軍も武士も百姓も皆同じ人間なんだ 人間に上も下もなく皆額に汗して働く新しい世の中を創りたい」と主張した 日本が世界に誇れる唯一の独創的思想家と言う かれの著書自然真営道は共産主義思想にも通じ身分・階級差別を廃し総ての人が労働(特に農業)に徹して額に汗してそのパンを食べるべきであると主張してあのロシア革命(1917年)のレーニンをも唸らせたという 1703年ー1767年を生きた凄い思想家がこの秋田山間地に生まれたのは何故だろうか 安藤昌益の墓大館市二井田贄の里33番地 其の名も巌松山温泉寺境内にある ➡右へ
左中 贄の柵跡



➡同じ大館市からプロレタリア文学の小林多喜二が生まれてるのも寄宿な縁とでも言うのでしょう 戒名は昌安久益信士とある









錦木塚・狭布の里 其の5
     

 温泉寺にある安藤昌益の墓

左中 泰衡の妻の神社 西木戸神社

左端 錦神社 
命日である旧暦9月3日には有志により供養の祭典が行われる
 村人は哀れに思い錦の直垂(したたれ)に包んで丁重に埋葬したので錦神社と呼ばれるようになった右は比内町にある泰衡の妻を弔う西木戸神社 錦神社の南西数キロの所にある真澄は紀行文にえのしがらみのなかで『・・・五輪台にきた その由来は泰衡の妻がおのれの夫の行方を捜し求めてここに来て篠原の中に身を隠して2~3日いたところ泰衡が討たれたと聞いたので自分の咽喉に剣をたてて死んでしまった と語り伝えている 真澄は紀行文にえのしがらみのなかで『・・・五輪台にきた その由来は泰衡の妻がおのれの夫の行方を捜し求めてここに来て篠原の中に身を隠して2~3日いたところ泰衡が討たれたと聞いたので ➡右へ  自分の咽喉に剣をたてて死んでしまったと語り伝えているその墓石と言って長谷部藤右衛門とか言う家の庭に五輪石が砕けて転がってあったものをの残っていた三つの石を重ねて堂をつくりそれを納めていたこれにも出向の田の神と同様に3月3日・9月3日にはお酒やしとぎをささげてお祭りをしている』と書いている 神社の名称はこの辺り一帯が泰衡の異母兄弟西木戸太郎国衡の地から名づけられた 錦神社から数百m離れた所に贄の柵跡がある ここの説明版には「・・・柵内の物々しい切羽詰まった緊張感を察知した泰衡が迷惑をかるばかりと判断し川向の芦原で自害して果てた 困り果てた河田次郎は首だけを頼朝に届けたと同情的に解釈をしていて地元では頼朝に逆臣の汚名を着せられ断罪された事に反論している説明版には「…武勇を轟かし実直で人望の厚い武将であったので領主である泰衡を手厚く迎え接待していたが・・・」と書いてある 吾妻鏡には「・・・河田忽ち年来の旧交を変じ郎従などして泰衡を討たせその首を梟す」とある