比内町 逹子森とJR花輪線 |
達子森
大館市比内町扇田
達子森は207mで大館市と比内町の境にある アイヌ語で丸山とか円山とかの意味らしい お椀を伏せたような形の山を逹子山とか森かと呼ぶようだ 青森のにんにく産地田子や平泉の近くの逹谷(たっこく)の岩屋や福島市の立子山などみんな同じ意味である 東北には意外と多いので子供のころ茶碗にご飯を山盛りに盛ることをてっこ盛とも呼んでいたがアイヌ語の流れかもしれない 比内鳥で有名な比内町側から見た
江戸時代菅江真澄はこの達子森のことを『風葬の名残があって死者の遺族は四十九日までの間にこの丘に5回登って祈ると死者は早く極楽浄土できると信じられている』と書いている |
上 大館市南部に三哲神社がある 学問・医学・武道の三道に優れた千葉秀胤で村人は三哲と呼んでいた 死に際して死後もこの村を守るから蝦夷ガ森の中腹に埋葬してくれとの遺言に従わなかった村は4年後大火に見舞われた 祟りを恐れた村民は改めてここ蝦夷が森に埋葬し祀ったという それ以後この森は三哲山と呼ばれ祠は三哲神社と呼ばれるようになったという 享和2年12月20日に菅江真澄もここに来てる
上右 真田幸村昭和28年12月15日
313回忌と彫られた石碑 起行山一心院
驚いたのは大館市内の真ん中にあるお寺(起行山一心院)の墓地に何と真田幸村のお墓があったのです 信州上田の六文銭で有名な最後の戦国時代を飾った武将だが元和元年1651年大阪夏の陣で出城真田丸で孤軍奮闘あの徳川家康をあと一歩まで追い詰め一瞬家康の肝を寒からしめたが多勢に無勢49歳の生涯を終えた 所がその後生存説多発大阪天王寺・長野松代町・和歌山九度山・京都龍安寺・宮城県白石市・或は鹿児島県にまでお墓がある ここの説は幸村は上田の真田を飯田と姓を変えて秀頼が没すると幸村・大助父子は、その冥福を祈るため諸国の霊場を巡礼し北陸路から奥州路に入った 幸村はここでの俗名は長左エ門といい寛永18年(1641)に76歳で没した事になっている 義経の様に悲劇のヒーローの判官びいきなのだ |
信濃屋長左エ門事真田左衛門佐幸村之墓 大館市谷地町後
と彫られ右が古い石碑 左が昭和28年に313回忌に札幌在住の墓碑 真田の末裔飯田富子・大館在住の飯田ムメ氏が建立したもの 勿論真田の本願地上田は信濃の国であるから信濃屋を名乗ったのだろうか 現在茨城県那珂郡大宮町小場に字一心院の地番がある 勿論常陸からきた佐竹氏とは無縁ではないでしょう |
大舘きりたんぽのPRポスター
このポスターは鳥潟家で撮影されたものです 会館の許可を得て掲載 鳥潟家は次頁へ |
錦木塚・狭布の里 その6
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