真山神社 |
左右 男鹿真山神社
男鹿市北浦字真山
「なまはげ」ゆかりの神社で、12代景行天皇の時代に武内宿禰が男鹿視察の折爾爾杵命・武甕杵命を祀り使命達成・国土安泰・武運長久を祈願創建したと伝えられている古社 2月には神社の境内でなまはげ柴灯まつりが行われます
平安時代以降仏教の伝播男鹿にも至る頃の貞観年中円仁慈覚大師によって湧出山を二分して真山・本山といたと伝える➡ |
➡ 以来修験の信仰がたかまり天台僧徒により比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合されたという 支配も陸奥豪族安倍・清原・藤原・佐竹氏等の比護を受け修験霊場・祈願所として崇敬された |
信長の次男織田信雄の居住跡
小玉廣光氏宅の庭にある |
天正19年(1591)織田信雄 秀所怒りにふれ 秋田城之介に預けられる
琴丘町天瀬川の菅江真澄の道の碑のある小玉家の敷地に織田信雄(のぶかつ)の屋敷跡が有ったのには驚きました 歴史的人物の織田信長の次男にしては余りにも無能で暗愚な男であった人物だからこそ八郎潟までながされたのでしょう ウイキペディアによると伊勢北畠氏攻撃では父信長に逆らって勝手に伊賀攻めで大敗北を喫し 賎岳の合戦では秀吉に味方して柴田側の異母兄弟の信孝(三男)を自害させ その後秀吉と不仲になった信雄は今度は徳川家康と同盟して小牧・長久手の戦いをしでかしたが今度は家康に内緒で単独で秀吉と和睦を結びこれを機に天下取りを狙った家康は梯子をはずされたかっこになってしまった その後は秀吉に従うが小田原攻め後の論功行賞では自分の生まれ育った尾張を離れるのを嫌って➡下へ |
国指定重要無形民俗文化財なまはげ
神社近くになまはげ館がる 要するに厳寒の秋田で囲炉裏や炬燵にあたってばかりいて仕事や雪下ろしもしないづくなしを諌めたものでしょうか このお面は往時実際に使用されていた鬼のお面である 真山のナマハゲは唸り声を上げながら家に上がるとお膳に坐る時7回・立ち上がる時3回の四股踏むんだそうだ 本物はやはり生々しいネ |
ナマハゲの由来については色々ある様だ 囲炉裏の火に長く当っていた時に皮膚に出来る火形の斑紋を剥ぐとか、人間の生皮を剥ぎ取る、生身の人間が化物になる生化(なまけ)からとか多種多様である その正体も色々で漢の武帝に仕えた五鬼とか、異邦人説、修験者説等がある ナマハゲ発祥にかかわるとされるのが国指定重要有形文化財の赤神五社堂である 菅江真澄の男鹿の島風には ・・・この男鹿の島では小児が泣くと「なまはぎ」がきたといっておどかす これは奈良の元興寺に鬼がいたと言って、そこでは「がごじ」又は「ぐゎんご」などといって童児をなだめすかすのも同じで、また東路でも、「ももくわ(ももんが)」とか陸奥では「もっこがきた」きたといって脅かしている もっこは蒙古国の来襲をおそれたものがもとであるという なまはぎは正月15日の夜に身の毛もよだつような恐ろしい丹塗りの仮面をかぶり、けらみのというものを着た男が手に鋭い刃物を持ち小箱を背負い其の箱の中には物を入れてからからと鳴らし叫び声をあげながら家のごとに入ってくる これをなまはぎと云う 冬篭りをして囲炉裏の焚き火にあたっている時 腿や脛に赤斑に火形がつく それをなまみ・なもみ・あるいはなごみなどというところもあったが なまはぎはなごみはぎという意からでた名だろうか また生肉剥(なまみはぎ)ということであろうか・・・と載っている(菅江真澄遊覧記 ㈱平凡社) 境内近くにはなまはげ館・真山伝承館がある
前頁 男鹿寒風山
荒々しい風景が連なる日本海にあって唯一女性的でなだらかな全山紫蘇輝石安山岩からなる柴草のみの山 古は妻恋山・羽吹風山 この山頂の展望台からは埋め立てられた八郎潟・船川湊等が見えるて絶景である
前頁 菅江真澄の道 隠里寒風山を裏側に下り始めるとと建っている
前頁 真山神社鳥居 鳥居の向こうに真山(しんざん) 真山神社入り口
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右 菅江真澄の道 天瀬川 八郎潟東岸の山本郡琴丘町天瀬川の旧道にある
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上から➡秀吉の怒りを買い下野・秋田。伊予へと流されたらしいのです『信長の息子ブランド』として秀吉と家康に利用されたため運がいいと云うのか織田家で大名として73歳まで生き残ったのは信雄ただ一人と言うのですから人生は分からないものです フィギヤスケートの織田信成選手は信雄の末裔なのです 白い肌と細い眼つきは織田一族の特徴のあらわれです
安東氏程伝説に満ちた一族は無いでしょう 長脛陽彦や安日の伝説的人物から阿倍比羅夫・アテルイそして阿倍頼時・貞任等や檜山安東氏や湊安東氏そして安東愛季による統合秋田氏 奥州十三湊日ノ本将軍を名乗り陸奥蝦夷の末裔をもって任ずるなど実に魅力的なのです 秋田氏は福島県田村郡三春町で明治維新を迎え華族に列せられ子爵の地位を得ている 安東氏を調べれば陸奥蝦夷の魅力が分かる程のです 次頁へ
男鹿 其の3
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