檜山安東氏城館跡入り口 
多宝院は檜山城主多賀谷氏が現茨城県下妻市から移封の際に移転され➡

檜山安東氏城館跡(国史跡)能代市
城からの能代の展望は絶景です この城跡は7世紀日本書記に出てくる蝦夷の淳代郡領沙尼具那住居跡では?とも推測されロマン溢れる地だ

➡たもので県重文の本堂の回廊は鶯張りで歩くと美しい音色を立て 又唐門は{阿・ウン)と云う音を出すという

阿倍比羅夫が船を繋いだと云う大欅の大木
能代市仁井田白山に倫勝寺内がある 古木の風合いは古代への想像力が満ち溢れます

日本最北の延喜式内社副川神社 八郎潟町
八郎潟町の高岳山頂(221m)にあるです
諏訪神社 八郎潟町夜叉袋 蕪村句碑(下) 諏訪神社境内 境内の碑には下記の文言が彫られたいる 勿論文語調です 出羽の国から陸奥の方へ旅をしていたら山中で日が暮れてしまった やっとの事で夜叉袋と云う村  男鹿 其の4










下から➡月は山の姿を映し出し涼しい風が竹藪を吹き渡り明るい月夜の美しさは言葉では言い表せないほどだった この老人は昼の暑さ避けて夜に麦搗きをしてるのだそうだ 近寄って名前を聞いたら宇兵衛と答えた
涼しさに 麦を月夜の 宇兵衛かな 蕪村

右 檜山城から能代市内に向う檜山追分旧羽州街道沿いにある県指定史跡の松並木 松前藩主・弘前藩主の参勤交代の道だ
  延喜式内社副川神社 八郎潟町浦大町
秋田県内には3っつしかない式内社である

八郎潟干拓

街道を行く29秋田県散歩(朝日新聞社)の中で司馬氏は彼独特の言い回しで『・・・日本は有史以来貧しかった 歴史が残した富の蓄積がせいぜい奈良や京都の大寺程度であることを思うと日本史そのものがやっと食える程度の歴史だった事をおもわせる 明治後の資産である陸海軍や都市文化も戦争で失い飢えのために窮しきっていた戦後人々が日本と云う国につないだ共通の願望はーたとえ貧しい国であっても米だけは不自由なく食べられる国であってほしいーと云う程度のものだったのではないか
 八郎潟干拓はその貧乏国の伝統と願望のなかから生まれ出たものなのである…』と書いている


永久常夜灯
髙岳山腹にある中の鳥居の前にある高さ2.5mの 八郎潟を往来する舟の灯台であった ここからは絶景の八郎潟が望めます

上から➡に着き一晩泊めてもらう事にした すると夜通しごとごとと云う音が聞こえてくるので不思議に思って出てみると古寺の広庭で年をとった男の人が臼で麦を搗いていた  わたしもその辺を廻ってみた➡右へ