999段石段 凡そ20分で五社堂に登れる

下 徐福塚

菅江真澄の道 姿見の井戸

菅江真澄の道 五社堂
  菅江真澄も来た五社堂

菅江真澄の道 飯ノ森
文化元年8月29日飯の森を訊ねる 男鹿の秋風

下左 菅江真澄の道 滝川 下右 同 十文字のの板碑
 菅江真澄翁と男鹿半島 三河生まれの彼は50年近くも陸奥・渡島(北海道)巡り歩いた紀行家である 此処男鹿の地でも男鹿の五風として往時の男鹿の習慣・習俗・風習・伝承・伝説を記載している 男鹿の秋風(文化元年8月-9月)では文化元年8月半ば久保田(現秋田市)を発ち男鹿半島を南下して門前から本山へ登り赤神山日積寺に詣でるまでの事が書かれてる 男鹿の春風(文化7年3月-5月)では文化七年三月半ば真山光飯寺の参詣等北浦周辺の巡遊いた事が書かれている 男鹿の鈴風(文化7年5月-6月)では文化七年六月半ば北浦から入道崎を巡り戸賀の浜までを書いている➡  ➡ 男鹿の島風(文化7年7月)ではこの年の盆行事を戸賀塩戸の浜で迎えた所から丸木舟に乗り巡った西海岸の奇岩・奇景を図絵に描いて外浦の優れた風物を伝えている 又男鹿の寒風(文化7年7月-文化8年2月)では同じ年8月27日男鹿で遭遇した地震の生々しい様子を伝えている(参考 入道崎菅江真澄案内板) 男鹿の国道・県道を走るといたるところに菅江真澄の道の碑が立っている 秋田県内だけで凡そ400・男鹿を含む近辺だけでも120位あるという 

左  徐福塚
中国最古の歴史書史記にある秦の始皇帝の命による不老不死の薬草を求めて徐福は船に童男・童女数千人を乗せて東方の三神山に向けて航海したという 又続日本紀にも「古 渤海・鉄利の人一千百余人が吾国を慕い来て出羽の国に置き衣食を給して還す」とある 男鹿は徐福上陸伝承の地なのです 紀州熊野にも徐福の墓がる

 菅江真澄の道 姿見の井戸 
石段脇にある姿見の井戸 「弘法大師加持祈祷の御供水といい三尺余の丸石の井なり 深さ一条余 井水に姿見えざれば三年の中に没すという清水なり登山の男女嗽をなす」(キヌブルイ鈴木重孝著)とある 菅江真澄も「坂を遥かに登ると姿見の井戸がある この水鏡が曇り真個の形が映らない人は命が長くないと占われるなり」と書いている

 文化7年4月16日 山田で板碑を見る 男鹿の春風
男鹿の春風
男鹿 其の6


右端 菅江真澄の道 染川城跡 16日空がたいそうよく晴れていた 松菊舎の主人にさそわれ旧い石碑があるところへ行こうと出かけて染川の浦を過ぎてやがてつい館と云う所は安倍の兼季の頃こもった柵の跡といわれ海に臨んで高い