左上下 国重要無形民族無形文化財 西馬音内盆踊  西馬音内役場商工観光課提供

 湯沢市の西隣の羽後町の雄勝の柵の近くにある西馬音内 おわら風の盆(富山八尾町)・佐渡おけさ(新潟県佐渡)と並び日本3大盆踊り西馬音内盆踊りは知名度はいまいちだが国指定重要文化財である 秀吉の奥州仕置で雄勝郡は最上氏が支配する事になった 西馬音内城主小野寺茂道一族の霊を弔うため亡者踊りと古来の豊年祈願の踊りが合体したものと言う 俳人河東壁梧桐は「赤い帯や袖が動くのが、火に映えて美しい。初めて絵になる盆踊りを見た」と述べている。直接見てないがおわら風の盆で想像できる 黒い布で顔を隠した踊り手はきっと神秘的で幻想的な踊りに違いない 編み笠を深くかぶる女性や真っ黒な彦三頭巾をかぶり決して顔を見せないのは女か男かわからない 後の跳ね上がった編み笠からのぞく白いうなじのみが秋田美人の妖艶さを醸し出す 又端縫い衣装と呼ばれる絹の端切れで縫い合わせた衣装も旅人の心を微妙に高ぶらせます ニシモナイは勿論蝦夷語でしょう 「西馬音内は必定蝦夷語に出でしならんか 其西に馬音の字を仮借せるは殊に異とすべし 初マオンをマオに仮し也」とある つまり初ニシマオンナイがニシマオナイになり次第にニシモナイになったのでしょう 如何にも蝦夷地らしい地名です

吉三郎の墓と伝承される石塔だが吉祥院小姓吉三の墓とも言う 吉三郎と吉三は同一人物かもしれないね 
国重要文化財 三輪神社 秋田県雄勝郡羽後町杉宮
本殿は室町時代後期建築と伝えられ昭和29年に国の重要文化財に指定された 関東・東北では唯一滋賀県内の室町時代の遺構に多く見られる形式だという
 三輪神社と雄勝の柵とは表裏一体の関係でしょう
 三輪神社
 この村にはこの杉宮の外に糖塚・田畑にも三輪と呼ばれる神社・祠がある 奈良県桜井市にある三輪神社本殿を持たず三輪山全山をご神体とする大神神社(おおみわ)であり大和一の宮でり大和朝廷の設立と同じくして存在した我が国最古の神社である つまり三輪神社は大和朝廷と表裏一体であり蝦夷征伐とともに陸奥に来たのです この地に三輪神社があることは雄勝柵が存在した証ではないでしょうか
右上下  秋田県の不思議事典(新人物往来社)によると1657年(明暦3年)あの振袖火事で有名な八百屋お七の恋人の吉三郎のお墓がここ羽後町の三輪神社の隣の久昌寺に有ると記述されている 楽しみにしていたが若いいけ面のご住職に尋ねたが聞いたことが無いとの事 本には具体的に『墓碑には祐泉と云う号と元禄16年と云う文字が刻まれている 野ざらしのままだった石塔にお堂を建てた』と載ってる 羽後町役場に問い合わせたところ地図と資料を送っていただいた 墓石であろう碑は左の画像で右画像の小屋の中にある 文字はよく判読できなかった 自分に恋して火あぶりの刑に処せられた哀れなお七の霊を慰めるため吉三郎は一年発起して吉のつく寺の諸国巡礼の旅に出てここ三輪村の吉祥院に訪ねてきた 吉祥院は現在の久昌寺と云う その隠居寺の有った所がここで往時は円福寺と称し吉三郎はここに住み生涯を終えたという こんな伝承なのだがお七の恋人は小野川吉三郎・生田庄之助・山田佐兵衛等の説もあり更に吉三郎は悪党で恋文の取次ぎをして金品を巻き上げたり又火をつければ庄之助に会えると放火をそそのかしたとか諸説紛々である ただ僅か15才(本人は16歳と主張したた鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられた)の乙女が会いたさ見たさに放火する動機は現代の若者の無知蒙昧さに似たところがある
 

秋田県雄勝郡羽後町西馬音内本町

吉三郎の墓を案内してくれた親切な男性 背後の小屋の中に墓石がある 雄勝郡羽後町
 続日本紀の中にある雄(小・男)勝の文字のある文章を載せてみました 往時の息吹が伝わり想像力が心躍らせてせる
●天平5年12月26日 出羽柵を遷して秋田村高清水岡に置く 又雄勝村に郡を置く 
●同9年1月21日  是よりさき陸奥按察使大野東人陸奥国より秋田出羽柵に至る直路を通せんため男勝村を征せんと請う 是日 持節大使兵部卿藤原麻呂以下を陸奥国に発遣せしむ ●同宝字元年4月4日 不幸・不恭(人をないがしろにする)・不友(目上を敬まわない者)不順(道 理に従わないもの)なる者あらば陸奥国桃生・出羽国小勝に配置せしむ
●同元年7月12日  百姓を出羽小勝村の柵戸に移す ●同2年12月8日 坂東の騎兵・鎮兵・役夫及び夷俘等をして桃生城・小勝城を造らしむる ●同3年9月26日 勅して陸奥国・出羽国雄勝城を造らしむ 役する所の郡司・軍毅・鎮兵・馬子の今年の調・庸・雑徭等を免除す。また雄勝・平鹿の二郡と、横河・雄勝・助河に驛家を置く
●同3年9月27日 坂東8国、越前・能登・越後等の国の浮浪人2000人雄勝柵戸となし、又関東7国より送る所の軍士・器仗を雄勝・桃生の2城に貯う
●同4年1月4日  勅して雄勝城完成の功を賞し 出羽守小野竹良・介百済王三忠等以下の位を進す。又軍士・蝦夷・俘囚等の功あるものは按察使をして奉聞せしむ ●同4年3月10日  没官の奴婢を解放して雄勝柵に移す 
●宝亀7年2月6日 出羽国に勅して軍士4000人を発し陸奥国と呼応して雄勝より陸奥西辺の蝦夷を討つぃむ
●同11年 是歳 雄勝・平鹿2郡賊のため侵さる
●延暦2年6月1日 出羽国の請により雄勝・平鹿2郡の百姓の3年間の調・庸を免ず
●元慶4年2月25日 連年の凶作により出羽国雄勝・平鹿・山本3郡の1年間の調・庸を免ず 又不動穀を3郡の荻俘に給す(日本三大実録)(秋田県史資料編)
 小野の郷 
其の6