蝦夷(えぞ)とは今の北海道でしょうが千島はその北にある多数の島々と云う意味でしょうか?今日千島列島と呼ぶ島々は歯舞諸島5島を含めてカムチャッカ半島の占守島(しゅむしゅしま)迄20島があるが当時は沢山を意味する千島と呼んだのかもしれない。北海道らしき地名の初見は、日本書紀斉明天皇5年(659年)阿倍比羅夫北征の折『・・・間菟の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うおな)の二人進みて曰く後方羊蹄を以って政所と為す可し。 胆鹿嶋等が語に随いて遂に郡領を置き帰る』とあり北海道に政庁を置いたと伝えてはいるが現在北海道の後方羊蹄である証拠はない。続いて日本書紀斉明天皇6年(660年)3月『・・・阿倍臣を遣わして船師200艘率いて粛慎の国を伐たしむ。阿倍臣陸奥の蝦夷をもって己が船に乗らしめ大河の側に到る。 ここに於いて渡嶋の蝦夷1千余り海畔に屯聚し、河に向かいて営す。 営中の二人、進みて急に叫びて申さく「粛慎の船師多く来たり、我等を殺さんとする故に、願わくば河を渡りて仕官せんと欲す」・・・』とあり始めて出てくる渡島の名が北海道だろうとしている。更に日本書紀持統天皇10年(696年)3月12日『越の渡嶋の蝦夷伊奈理武と粛慎志良守叡草と錦の袍袴,緋・紺の?、斧等を賜う。』、扶桑略紀養老2年(718年)8月14日『出羽並びに渡嶋の蝦夷87人来たりて馬千疋を貢ず 即ち位・禄を授』、続日本紀養老4年(720年)正月23日『渡嶋津輕津司従七位上諸君鞍男等6人を靺鞨国に遣わしてその風俗を観しむ』、類聚三代格延暦21年(802年6月24日『渡嶋の荻と私的に毛皮などを交易することを禁止する太政官符す 私に荻土の物を交易するを禁断する事』、藤原保則伝元慶3年(879年)頃『津輕から渡嶋にかけて北部の部族たちが政府に服従する。 津輕より渡嶋にいたる雑種夷人の前代にいまだかって帰符せざる者みな尽く内属す』、本草和名巻上延喜十八年(918年)頃北方の海産物である昆布に「ひろめ」「えびすめ」という訓が記される『昆布。乾苔<性は熱> 柔苔<性は冷>昆布の一名綸布。和名比呂女 一名衣比須女』と生々しい大和朝廷の北海道との関わりが記述されている。現在も函館にある道庁支庁名は渡島支庁であり勿論内浦湾を囲む半島は渡島半島です。然し9世紀初頭には未だ蝦夷が千島の認識は無さそうだ。その後も賊地・狄土・胡地・狄地・夷狄地等の呼び名あるが未だ陸奥・出羽の辺りをさすようです。ところが鎌倉期に入ると 『夷狄島・夷ノ地・夷嶋・えそがしま・イノ島・俘囚の島・北海の島えびす』等北海道らしき認識が記述され、南北朝になると『蝦夷が千島・えそがしま』が現れ室町期で確実に北海道が認識され、朝鮮で発行された日本本国の図で北海道が夷島として最初に地図に表記されたのです。こうして認識がはっきりしてくると遥か異郷の異人や珍品への好奇心が神秘的・蔑視的・畏怖的対象として盛に歌に詠まれたのでしょう。 前Pの歌人の生年月日は最古が源仲正が1060年、最新が滋鎮(滋円)1155年と凡そ100年の間に集中していているのはこの時期に北海道の物産や具体的情報が入ってきたからでしょうか。そしてその北海道には当時住んでいたと云う人種が面白いのです。1356年(延文元年)の諏訪大明神絵詞によると『当時東北の大海の中央にある蝦夷が千島に住んでいた人には日ノ本、唐子、渡党の三種の住民が333の嶋に群居していたという。その中の宇曽利鶴子(ウソリケシ=函館・函館は昔ウスケシと呼ばれてた)と万堂宇満伊犬(マトウマイヌ松前)の小嶋に住む渡党は奥州津輕の外が浜に往来して交易している。3種の蝦夷の内日ノ本・唐子の2種はその地外国に連なり、形体は夜叉の如くで変化無窮であり、禽獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じ難い。一方渡党は和人に似てるが髭が濃く多毛である。言語は俚野だが大半は通じる』と記している。日ノ本・唐子は白系ロシア人、渡党はアイヌ人なのでしょうか?誠に古代北海道は興味深々の初々しい大地なのです。そして当時の日本の辺境・境界の地が今も昔も北海道をして日本のフロンティアの地としているのです。保元物語(13世紀前半)西は鬼界・高麗・・・東は阿古流や津輕・俘囚が千島はり・・・。承久記(鎌倉前期)西ニハ九国二島、東ニハアクロツガル夷が嶋マデ・・・。入来院文書(1277年)さやうならハ、ありのままにかミへ申て、ゆほを(硫黄)のしま、えそがしまへなかすへし。渋谷定仏後家尼妙連等重訴状(1280年頃) ・・・湯黄嶋・夷嶋江可流云々・・・。八幡愚童記(鎌倉末期) ・・・然ニ当世ハ素都ノ浜ヨリ初テ鬼界が島ニ到ルマデ・・・。曾我物語(鎌倉末期) ・・・左御足践東国外浜・・・右御足践鬼界島・・・南限熊野御山、北限佐渡島、東限褐・津輕・蛮?嶋、西限鬼界・高麗・硫黄島・・・。融通念仏縁起 ・・・日本国えす・いほうが嶋までも・・・。義経記(室町期) 君の御供とだに思ひ参らせ候はば、西は西海の博多の津、北は北山・佐渡島、東は蝦夷が千島までも御供申さんするぞ・・・。ひめゆり(室町期) ・・・うはの空に、月日をゝくり、心行ゑをしるへにて、きかい(鬼界)・かうらい(高麗)・ゑそか嶋まで、たつねわたりてたにも・・・。今堀日吉神社文書 ・・・右商人等・東日下、南熊野之道、西鎮西、北佐渡島、於其中・・・。とあり凡そ境界の東は津輕・蝦夷が島、北が佐渡島、西は鬼界島・硫黄島・高麗、南は熊野となっていてその外は鬼が住む恐ろしい所で二度と帰れぬ恐怖の地域だったのです。よって古来これ等の地は著名な流刑の地ともなったのです。見たり食べたりの北海道だけでなく知る北海道も素晴らしいのです。
(平成18年7月17日)(参考 弘前市史・函館市史・新青森市史資料編・近世蝦夷地成立史の研究 三一書房)

松前街道終点の地碑
油川から続く松前街道はここ竜飛岬で尽きるのです 正に地の果てを実感します

・・・ここは本州の極地である この部落を過ぎて路はない あとは海に転げ落ちるばかりだ 路が全く絶えているのである ここは本州の袋小路だ・・・
太宰治 津軽
蝦夷が千島 其の2