県下第一の高峰でその山頂は三つに分かれ中央が岩木山・北隣が巌鬼山・南側が鳥海山と呼ばれてる。最後の噴火は1863年(文久3年)の休火山で鳥海火山帯に属している。津輕の人々は古来この山を神として崇め四季の移り代わりや天候の変化をこの山から教わり農作業の目やすとしている。当然ながら津軽の神山・霊山として津軽全人の心と日常生活の拠り所 求心力となっている。その信仰の中心にあるのが麓にある岩木山神社だ。岩木山は津軽平野の各地からその秀麗な山容を望む事が出来き単独の円錐形は正に神奈備山に相応しい形をなしている。”津軽富士 お岩木さん お山”などその親近感の現れでしょう。標高1625mだが周りが平坦なだけに非常に高く大きく見える。古くは阿蘇辺の森 往来山 岩城山 磐椅山とも呼ばれていたと言う。そして其の信仰の表れが「御山参詣」である。古くからの霊山信仰の山で御山参詣が盛んなったのは元禄の頃かららしい。稲の作柄のめどがつき取り入れ迄間がある旧暦の8月1日山頂の奥の院での神振祭で御来迎を拝む為真夜中に出発すると云う。正に住民の守護神となったのです。其の麓にあって岩木山を背景に建つ岩木山神社は私が見た陸奥に多数ある神社の中でも非常に大きく又1625mのお山を背負うようで実に見事な神社である。岩木山神社栞によると岩木山大神は太古より神霊岩木嶺にお鎮りになられた今から約1200年前の780年(宝亀11年)社殿を山頂に創建したのが始りと言う。その後800年(延暦19年)征夷大将軍坂上田村麻呂がこれを再建して山麓に下居宮を建立し山頂を奥宮としたと言う。その後歴代津軽藩主の厚い庇護のもと神殿・山門の大造営がなされ、本殿 奥門 瑞垣 拝殿 中門 桜門は国重要文化財で、8月1日のお山参詣は重要無形民族文化財となっている。それは畏れ多くも日本の北門鎮護の名社に相応しい威容を誇っている。岩木山神社は9世紀始め桓武天皇御世征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷平定で国家鎮護の為三本の神柱を奉納したのに始まる。又森鴎外の山椒大夫でも知られてる万寿と津志王の霊をこの山に祀り岩木権現と称したと言う。白河天皇の永保年間(1074年〜1076年)この地領主岩木判官正氏が京の都に上った時讒言により西国に流された。政氏には万寿姫と津志王と云う二人の子供がいた。二人は母とともに父を捜して西国に下るが途中越後国で賊に連れ去られ母は佐渡島へ姉弟は丹後の国由良湊の山椒大夫に売られて行く話である。そして津輕氏は岩木山をこよなく尊崇して初代為信から4代信政に到るまで三所大権現の整備に力を入れ為信は大堂・信政は山門・信義は三尊仏厨子堂・信政は本殿を建立した。殊に信政は日光東照宮を手本としたので奥の日光とも呼ばれる由縁である。又信政は死後遺言によって岩木山麓に高照神社を建立させ岩木山・高照神社・革秀寺(為信菩提寺)・弘前城と一直線に並べ西からの弘前城守護を形造るほどであった。 岩木山麓南東部に位置した岩木町域の大部分が津輕国定公園・岩木高原県立自然公園に属し裾野は一面リンゴ園である。東日流三郡誌なる非公認の文書によるとこの辺りは阿蘇辺の森と言い阿蘇辺族が居住していたが岩木山の大噴火で消滅したと言う。9世紀平安時代秋田蝦夷が反乱(元慶の乱)を起した頃の津輕の史実は乏しいが日本三代実録元慶2年7月10日条に『・・・津輕の夷俘はその党、種多くして幾千人なるかを知らず。天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に走らばその鋒当て難し』と津輕蝦夷の記載がある。大和朝廷は津輕蝦夷の強さ・怖さをこのように認識していたのです。その蝦夷の末裔を名乗る安東氏を北海道松前へ追討した南部氏は津輕への勢力拡大を図り西浜の押さえとして1491年(延徳3年)南部信光(大浦氏)が35騎の武将を引き連れ西津軽郡鰺ヶ沢町種里に入った事に始まる。当時鰺ヶ沢・深浦は北前船の海上交通の要所であり檜山安東氏の押さえとした。1502年(文亀2年)南部光信は岩木山を越え津輕平野の西の端大浦(現在の岩木町)に築城し嫡男盛信を城主として大浦氏を名乗らせ、その後政信・為則・為信(津輕初代藩主)と続くのである。東西北は海・南は山の自然の要害に守られ攻め込まれる心配のない津輕一帯を押さえると三戸南部氏次第に南下政策をとり岩手北部の斯波・稗貫・和賀を押さえるのです。為信は1590年(天正18年)から1594年(文禄3年)までの足掛け5年間津輕氏領国支配の基礎をここ大浦城を利用した。その後大浦から石川城の北に位置する堀越城に本拠地を移した後、1611年(慶長16年)には弘前城を築城し近世大名津輕氏として成長する。それに反し三戸南部晴政は次第に勢力を高める大浦氏に対抗すべくそれまで南進の先鋒だった弟南部高信を1502年(文亀2年)津輕郡代として平賀郡の石川に石川城を築城して西の守りに配置した。然し南部晴政の死後其の相続争いから南部氏は四分五裂となり其の隙を衝き大浦氏が南部高信の石川城を攻略し自害させ公然と独立を開始した。時あたかも秀吉の天下統一がなり諸国の諸大名は入京して臣下の礼をとったが南部信直は相続以来の一族間の不和の為国を空けることが出来ず再三の督促にもかかわらず上京できずにいた。ところが1590年(天正18年)南部氏に先駆けて入京し臣下の礼をとった津輕為信は秀吉から津輕全域の所領を認められてしまったのである。このようにして青森の西半分は南部氏から津輕氏の領国となったのである。1502年から1594年迄堀越・弘前に移るまで凡そ90年ここ岩木町は大浦氏から津輕氏への飛躍の地だったのである。種里をホップとすれば大浦(岩木町)はステップ堀越でジャンプして着地が弘前という重要な拠点だった。(平成18年7月27日)(参考 弘前市史・大日本地名辞典 角川書店・青森県の地名 平凡社・郷土資料資料辞典青森県 人文社・東北見聞録 八朔社・古代東北と王権 轄u談社・弘前藩 褐サ代書館)
岩木山神社参道
 鳥居の上の山の字見えるのが岩木山でいかにもご神体なる御山を背負ってるのように見える


国重要文化財中門の彫り物 
奥の日光と云われる由縁です 柱などの軸部は黒漆塗り・木鼻や袖切りの絵模様には朱漆塗り・彫刻には極彩色を施し本殿・奥門同様豪華である
     
岩木山
其の2