国重要文化財桜門 
建立は寛永5年百沢寺の山門として2代目津軽信枚による 桁行16.6メートル、梁間7.98メートル、棟高17.85メートル、丹塗り一色の二層の壮大な楼門は周囲を圧する趣がある。一見の価値あるもんです 更にここの狛犬は威厳がありますよ
 

国重要文化財高照神社本殿  弘前市高岡
高照神社
津軽藩主第4代藩主信政公の墓所である 彼は吉川神道を信じ遺言により岩木山麓高岡地区に神葬された 吉川神道の教えに基いた建造物は他に例がなく建物8棟と墓碑2基が重要文化財に指定されている 吉川神道は吉川惟足によって唱えられた説で會津初代藩主保科正之も吉川神道によって土津神社に埋葬されている
 左 碇が関  碇ヶ関御番所高麗門 
現在は高麗門はドライブイン道の駅関の庄の敷地内にある 碇ヶ関は本陣を控えた関所の為弘前城の出城と見られ桃山時代の城郭建築に見られる様式で城郭外門として建てられていた
 
羽州街道碑
(現国道7号線) 福島県伊達郡桑折町から山形・秋田を縦断して青森市油川に到る街道でこの碑を少し行くと矢立峠へ行く国道7号と坂梨峠へ行く国道282号津輕街道の分岐点にある関所が碇ヶ関である 天正14年(1586)津輕為信が設けた 津輕一統志に「・・・即ち羽州と当国との堺にして双なき険阻なり 堺の此の方に高陽の地あり 関所を建てて警備す 今の碇ヶ関是なり」とあり 又古川古松軒の東遊雑記には「・・・左右柵を結い廻して関所あり 内に入れば番所ありて武器を飾り厳重なること中々箱根の御番所などの及ぶ事にあらず」と大げさに述べている 碇が関を越えると難険の矢立峠である 奥羽を遊行した吉田松陰も『両山直立して屏風の如し 一渓屈曲してその中を流る 山険しく路なく 矢立の峯その衝に当る 杉檜天を覆いて昼また暗し 天絶険をもって二邦をへだつ』と詠嘆してる 又古河古松軒も東遊雑記の中で『奥羽の堺は矢立峠と称して険しき山越えにして頂きより少し下りて矢立の杉と言う大木あり』と記している

下 関跡にあった羽州海道の碑
羽州街道(国道7号)と津軽街道(国道282)の分岐点にある
 
国重要文化財岩木山神社本殿と奥門
拝殿、楼門に遅れて、四代藩主信政の元禄7年(1694年)に建立され、下居宮と称された。本殿は、全面黒漆塗りとし、随所に金箔押しを施し、彫刻類はすべて極彩色を用いているほか、飾金具を多用し、屋根は正面に軒唐破風千鳥破風構えとし、正面庇柱には昇り龍降り龍を取り付けるなど正面の景観を重視した、豪華絢爛な建物であり奥の日光と言われる所以である。(神社ネットより)
左 4代藩主津軽信政公廟
信政の御廟であるが墓は神社本殿から2〜300mも後ろにある これは會津初代藩主保科正之の場合も同じである


 大浦城址碑 弘前市五代
弘前から鰺ヶ沢街道(県道3号)の傍らにあり現在は大浦中学校になっていてその面影はない 文亀2年(1502)大浦(南部)光信によって築城された平城でる 後に大浦(津軽)為信はここを手始めに津軽統一をはじめたのでる 当初安東氏の海上からの抑えとして種里に入部したが志ある者にとっては大変不便の為津軽中央部の大浦に築城した 然し元亀2年(1571)に大浦(津軽)為信は居城をここから堀越城に移し津軽統一を開始した 元々堀越城は南部氏の居城であったがここを拠点に南部孝信の石川城を皮切りに次々と津軽の南部氏諸城を落として17年で全津軽を統一した この為元は共に南部氏だったが東の南部と西の津軽の怨恨が21世紀まで続いてるのはそのためである

 岩木山 其の3