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左 羽州街道
矢立峠から碇ヶ関を超えた国道7号線沿いにある羽州街道碑
1572年津輕為信は津輕統一を目指していたが本宗家三戸南部氏の相続争いの隙をついて堀越城の南にあり津輕郡代として石川城にいた南部高信を攻め滅ぼし自害させた その出陣の地がここ堀越城なのだ ここは碇ケ関ー堀越ー弘前ー藤崎ー浪岡−新城ー油川へと続く羽州街道沿いの重要な地点にあった 1594年(文禄3年)為信は大浦城から本拠を堀越に移し1611年(慶長16年)2代目津輕信枚が弘前城に移る17年間政治を司る中心的機能を持った城下町で津輕氏が近世大名として成長する段階の重要な城だった 然し1615年(元和元年)江戸幕府の「一国一城令」で廃城となり堀越は宿場の機能を失い平凡な農村と化した
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上 弘前城から見た岩木山
下 お馴染み弘前城天守閣 国重要文化財 慶長8年(1603)大浦為信(津軽為信)が築城を開始したが翌年彼が死亡し一時中断したが2代目津軽信枚が慶長16年(1611)に完成した 信枚は慶長16年(1611)徳川家康の養女満点姫を正室に迎え3年後には大阪冬の陣に3000の兵士で参加し徳川家と密接な関係を結び幕府の基礎を作った 家康の養女満点姫と三成の遺児辰子を正室・側室にしたが二人は仲が良かったようです |
国重要文化財 石塚家住宅
弘前城北門前亀甲町にありで弘前の代表的商家である この北側中町は伝統的建造物保存地区になってる 石塚家は弘前藩出入りの藁商品問屋で18世紀初頭からの家柄という |
国指定史跡 堀越城跡 後ろが岩木山 弘前市堀越川合
碇ヶ関を越えて暫くして国道7号線沿い左手に見える
津軽氏で興味深いのは関ヶ原で破れた石田三成の姉弟の存在である 秀吉の養女となっていた辰子は二代津軽信枚の側室となり三代信義を生み次男源吾は辰子を頼り津軽家の客分となり杉山と名乗り25歳で死亡 その子吉成は正式の家臣となり最後には家老職まで勤め津軽家の重臣となっているのは驚きです
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天正18年17年に渡り津軽を統一した大浦為信は秀吉より4万5千石の領地得た この時大浦から津軽に改姓し大浦城から堀越城に移り藩の基礎を作った 関ヶ原の戦いでは東軍付き家康より2千石の加増を受け 4万7千石の弘前藩が成立した 慶長8年(1604)徳川幕府が成立すると堀越城から現在の弘前に町割りを行い弘前城の築城を開始するが慶長9年(1604)為信は京都で客死し一時中断する 慶長14年(1609)年2代藩主信枚が築城を開始することになる
岩木山 其の4
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国重要文化財 弘前城三の丸追手門 弘前市銀町
慶長16年2代藩主津軽信枚の建立による 江戸時代に建造された天守閣を初め3棟の隅櫓が現存し追手門と同じような5つの城門が重要文化財に指定されている(二の丸辰巳櫓・二の丸未申櫓・二の丸丑寅櫓・二の丸南門・二の丸東門・北の郭門・三の丸東門) |