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国重文青森銀行記念館
青森県最初の銀行として明治17年創設され青森県最初の銀行として明治37年に建てられたもの
右 太宰が昭和2年から4年まで官立高校へ通学した 藤田家は島津家の親戚筋に当たる
左 明治8年(1875)東北最古のプロテスタント教会として弘前公会が設置された 津輕藩校東奥義塾初代塾長本多庸一が北米メソジスト教師イング宣教師を招聘し洗礼を受けた日本人等を中心に誕生した
左下 弘前学院は明治19年設立され日本メソジスト教会初代監督で東奥義塾初代塾長本多庸一が設立した学校で当学院に派遣された外国人宣教師館として明治39年建てられた |
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猿賀神社 青森県平川市
385年(仁徳天皇55年)征討将軍上毛野田道が蝦夷によって伊治(石巻)の水門(湊)で戦死した その田道将軍を祭神とするのが猿賀石林にある猿賀神社である 同じ神社が秋田県鹿角猿賀野にもある 実は鹿角の猿賀神社が洪水によって流された時白馬に乗った田道の霊が流れ着いた所が尾上町のこの地と云うのだ 石巻にも田道神社があるが最果ての蝦夷の地に田道伝説あるのは北へ北へと追われてい行く中で➡ |
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左 盛美館 下 盛美園
国重要文化財盛美館
1階が純和風 2階が洋風だが内装は床の間に大理石など和洋折衷の珍しい建物で一見の価値がある 最果ての津輕にも文明開化の波は早い 庭の盛美園は盛美館と一体で見事な庭園景観をなしている 始めてみる方はここが最果ての津輕か?と目を疑う事でしょう
仏教・古神道文化を取り入れた武学流と云うもので24代清藤盛美が小幡亭樹宗を招き明治35年から9年を費やした盛美園を完成させた 24代清藤盛美の祖は清藤盛秀と言いなんと鎌倉幕府五代執権北条時頼の重臣だった 時頼にはその寵愛を一身に集めていた唐糸御前と云う側室がいたが廻りの嫉妬・苛めに苦しみ遂に永の別れを申し出た 時頼は必ず逢いに行くと約束してその身を盛秀に預けた 彼は海路十三湊に着き現藤崎町に居住した その後鎌倉幕府滅びると帰る所を失った彼はここ現尾上町猿賀の地を安住の地としたと言う |
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国重文 青森銀行記念館(旧第59銀行本店本館) 弘前市元長町
上中 市指定有形文化財 太宰治下宿 旧藤田家住宅 弘前市御幸町
上左 県重文 日本聖公会弘前昇天教会教会堂 弘前市山道町
左 国重要文化財 弘前学院外人宣教師館 弘前市稔町 |
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➡ 伝承の近代文明の征服者田道将軍の恐怖心が蝦夷のDNAに深く染み付き遺伝され続けた為ではないだろうか然し古代東北と王権の著者は田道は上毛野田道命として神として祀られているのは蝦夷に非道な略奪に痛めつけられた人々が救済の感謝と加護を神として崇めたというのだが果たして蝦夷を征伐にきた田道を蝦夷が神として祀るかは疑問がある 誠に興味深い處なのです
岩木山 其の6A
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国指定名勝 盛美園 青森県平川市猿賀石林
津軽で人気のあった大石武学流の造園で国の名勝に指定されている 盛美園造園は清藤家24代清藤盛美による 作庭には東京・京都・四国ににまで足を運ぶ伝統的庭園と建築を学ぶ 盛美館は25代清藤辨吉が鹿鳴館時代を彷彿させる和洋折衷様式を取り入れる 清藤家は歴代農業地主を営みんがら広く商売をしていたという その証拠の日本最古のそろばんががあり 箱書きに 『天文十一年壬寅三月調之清藤』 とある 最果ての地に咲いた至極の美です 一見の価値あり
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