国指定重要文化財 江渡家住宅    三戸郡五戸町 

五戸町指定史跡五戸代官所    三戸郡五戸町
上二つの藁葺屋根の内下側は元五戸舘跡に立つ代官所で江戸中期から明治2年まで五戸代官所として利用された町指定史跡である 上側は同じく五戸町にある国指定重要文化財の江渡家住宅である この住宅は天明年間(1781~1788)の飢餓救済事業として建てられたという 右側にある近代屯所の典型でドーム屋根付き鐘楼は県重要文化財の五戸町消防団第一分断屯所である
八戸城 八戸市内丸1丁目 三八(みやぎ)公園
八戸城は根城南部氏が寛永4年(1627)に知行替えになった後盛岡藩南部氏が支城として八戸城を築いたという その後寛文4年(1664)に江戸幕府の命により盛岡藩10万石から2万石を分離して正式に八戸藩が成立した 現在城址は三八城(みやぎ)公園と整備され外見上は城の雰囲気はない 1334年南部師行陸奥守北畠顕家の国代として糖部に入り北奥の拠点「奥塞の根底」「奥州蕩平の根の城」として根城を築城した 是が根城南部氏である 糖部・津輕を統治する南朝最高の拠点であったが南北朝統一後その影響力は急速に衰えた ➡
 
県重要文化財八戸城角御殿表門 市役所正面
八戸市役所の前にあその向かいで僅かに八戸城の面影を残すのが八戸城角御殿表門である 県重要文化財である  八戸藩政時代に後に 御番頭となる煙山氏が寛政年間に建てた棟門である 棟門と呼ばれる構造物では全国的にも最大級の大きさだそうで現在南部会館の表門となっている 

根城初代藩主 南部師行公   八戸博物館前
甲斐の国の師行は1333年鎌倉幕府倒幕では新田義貞の鎌倉攻めに兄弟と共に参戦して武勲を建てた 後醍醐天皇の建武の新政が始まると南部一族も枢要な役職に編成された 同年10月には北畠顕家に従って後醍醐天皇の親王義良皇子(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に下向した
 ➡変って糖部に於ける南部氏一族本流である三戸南部氏が台頭し1627年根城南部直義の代に遠野に移封され遠野南部となり八戸は盛岡南部氏の城代が勤める事ととなった その居城が八戸城であり以後八戸南部氏となるのである 同じ八戸にある南部氏の根城と八戸城だがその質に於いて同族の複雑な葛藤の歴史の城なです  
奥の郡 其の4
 
 

国指定史跡 日本百名城 根城  八戸市根城
1333年南朝方武将北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王をを奉じて陸奥に下向した時に甲斐の国の地頭職であった南部師行も同行して国代に任じられたのに始まる
 建武元年(1334)師行はここ糠部八森に城を構え南朝のた根本となる城になることを念じて根城と名付けた 1338年師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐の為大阪まで遠征したが北朝の高師直に敗れ顕家と共に戦死した

根城跡 八戸市根城
北奥統治の任を帯びた南部師行はその拠点として糠部郡八戸を選び建武元年(1334)に築城した 奥州に於ける南朝方の中心的存在でその支配権は糖部を中心に閉伊・久慈・鹿角・比内まで及び師行から政光(初代七戸氏)まで5代に亘り南朝に忠誠を尽くした 1627(寛永4年)遠野に移封されるまで凡そ300年に亘り南部氏の居城であった 左は昭和16年に国指定史跡され史跡根城址記念碑