左  旧斗南藩士の墓群
 みちのくの 斗南いかにと 人問わば 
       神代のままの 国と答えよ
権大参事山川浩をして言わしめた不毛の地で志半ばにして世を去った藩士の墓碑を斗南が丘唯一の生き残りの嶋影家が20数基の墓を守っている
左下 斗南藩追悼の碑
下 嶋影家の墓誌
には『旧會津藩士直系明治元年九月二十日鶴ヶ城落城明治三年六月十日安渡着 翌日十一日斗南岡ニ着以後名代トシテ現在地ニ居住ス』と彫られていた

右 
福島県最初の陸軍大将・旧斗南藩出身の陸軍大臣 柴 五郎の居住跡  
斗南藩は士族授産を目途にここ寂寥の落の沢に30戸余の住宅を築造した 五朗の父佐多蔵は『ここは戦場なるぞ 會津の国辱を雪ぐまでは戦場なるぞ 薩長の下郎武士どもに笑われるぞ』が口癖だった 然し明治4年の廃藩置県により忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった 斗南藩士族の胸中は『まこと流罪に他ならない 挙藩流罪と云う史上例がない極刑にあらざるか』憎悪と怨念が残るのみであった(説明板)

    

不退山常念寺 むつ市田名部町
 
田名部代官所が新設されるまで南部藩の御仮代官所として利用されていたという ここにある木造阿弥陀如来像は国重要文化財である

下 下北半島総鎮守田名部神社 むつ市田名部町1-1
田名部通の総鎮守で下北地方最大のお祭り例大祭田名部まつりで有名
 下北半島はよくの形に例えられる 刃先に当たるのが南の脇野沢村から北の端の大間町までの凡そ50kmである その鉞について青森県出身の劇作家寺山修司は次のように述べている『下北半島は斧の形をしている 大間村から北海岬へかけての稜線がその刃の部分である 斧は津軽一帯に向けて振り上げられており 今まさに頭を叩き割ろうとしている ように見えるのが青森県の地図である しかし惨劇はこれから始まろうとしているのではない すでに竜飛崎から鼻繰岬へかけての東津軽は一撃を受けて割られたあとなのである』と 彼はどんな意図をもって何故津軽の頭を叩き割ると云ったのか知りたいものだ
   左 悦心院  むつ市脇野沢
 
ここにはアイヌの墓標と過去帳があるのだが以前は本堂裏にあった墓標も損傷摩耗を防ぐため今は屋内に保管してると住職の話であった 生憎くその日は通夜の為に閲覧不可だった ここ脇野沢村には江戸時代に発府羅(ハピラ)と云うアイヌの酋長がおり陸奥湾岸のアイヌを統率していたという伝説がある
(青森県の歴史散歩且R川出版)

   奥の海 其の3