斗南藩史蹟 徳玄寺  むつ市  当時3歳の藩主容大公の食事や遊び場であり又重臣の会議場であった 中には往時の斗南ヶ丘市街建設設計計画図も残されている
下左 円通寺 斗南藩3万石の藩庁が置かれた所 藩知事には僅か5ヶ月の慶三郎(11代松平容大・かたはる)が陸奥国斗南藩藩主となるがその全責任を負ったのが権大参事山川浩である 神代の時代神武天皇に敗れた長脛彦・安日が津軽に追放されたように薩長に敗れた会津藩の近代に至るまで陸奥国は常に敗者を受け入れてきたのです  下右 招魂之碑 戊辰戦役33回忌に源(松平)容大の書による 裏面には『明治戊辰の乱 会津藩士各地に奮戦す 死者数千人 その忠勇節烈は凛乎としてその風雪を凌ぐ・・・・』と亡くなった藩士の霊を弔った文言が彫られている 勿論漢文調で

秩父宮殿下は昭和天皇の弟で昭和28年50歳では亡くなってるが勢津子妃は平成7年85歳で薨去された  京都守護職会津藩最後の藩主松平容保公の4男で分家松平恒雄(駐英・駐米大使・戦後初代参議院議長)の長女です 斗南藩は僅か1年足らずで廃藩となる  むつ市斗南が丘 
下左 秩父宮両殿下御成婚記念碑     下右 斗南藩史蹟地 斗南が丘にある旧斗南藩屋敷土塀跡
 再興を許された東北の獅子会津藩は大湊に上陸した 斗南藩士族は約200戸を田名部近郊から入植させ田名部郊外妙見平に藩の名をとって斗南が丘と名ずけた そこに東西に大門を作り18か所井戸を掘り市街地は1~6番町までの大通りにより屋敷割し1戸立て30棟・2戸立て80棟を建築1屋敷100坪の土塀をまわした 然しこの市街地建設の夢も過酷な気候や野火更に脱落藩士の前にその夢ははかなく挫折した 然も明治4年7月の廃藩置県により容保・容大も東京へ引き上げ 明治6年には扶持米停止・転業資金交付により藩士の転出が続きむつ市に残ったのは僅か50戸だけだったと云う 現在はわずかに残った土跡に当時をしのぶだけである そしてその踏み止まった者の中から後の東京帝国大学総長山川健次郎や陸軍大臣柴五郎等がでたのです 「・・・日々の粮にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草根木皮を噛み
     ➡氷点下20度の寒風に莚を張りて生き永らえし辛酸の年月・・・(後の陸軍大臣柴 五郎日記)」
(街道をゆく33白河・會津のみち 朝日文芸文庫 説明板)
左隣 斗南が丘の秩父宮両殿下御成記念碑 容大の姪勢津子妃の皇族との結婚は会津の魂の復活・逆賊否認の証となった  勢津子松平容保公の4男恒雄氏の娘で節子と云うが姑が節子(さだこ)と同姓の為伊勢神宮の勢と會津の津をとり勢津子とした

  奥の海 其の3A