正之は深く神道を信じ吉川惟足から卜部家神道の奥義を極める 霊号「土津(はにつ)」は 万物の始めと終わりの「土」と会津の「津」であり偉大なる会津藩主を表している 彼は事の他この地を気に入り
万代と 祝ひ来にけり 会津山 高天の原に すみかもとめて 
と詠んでいる それに対して惟足も
君はここ 千歳の後の すみところ 二葉の松は 雲をしのがん  と返している 
日本書紀以来の由緒を誇る磐梯神社の隣に我が身を葬れとの遺言に従いこの地に葬られた 2代目からは会津院内墓所である
 
 猪苗代盛胤の墓
猪苗代城の最後の藩主盛胤父盛国が伊達氏に内通したのを諌めた為追放された 葦名側につく盛胤の反対を押して盛国は伊達政宗を招き入れ葦名敗北の遠因となる 蘆名没落後は蒲生にも仕えず寛永18年(1641)77歳で没した 墓は内野の寂しい山中にある

下 最後の藩主第14代猪苗代盛胤の五輪塔  明暦4年(1658)建立
 キリシタン殉教の地の碑  會津藩主レオ蒲生氏郷は熱心なキリシタン大名だが ここ猪苗代の城代をはじめ熱心な信者は寛永元年(1622)三代将軍家光の時代の禁止令により改宗しない信徒が処刑され埋葬された地である 猪苗代の城代を勤めた岡越後は、イエズス会を招いて修道院を置き、情熱的な宣教を展開し、結果、領内のほとんどの者がキリシタンになったという。 
上 保科正之の墓 土津神社
土津墳鎮石
と刻まれているがこの下に彼は眠る 思えば秀忠の浮気から出来た正之だが恐妻家の妻お江のヒステリーに慌てふためく秀忠が何とも人間臭く微笑ましい 将軍家も現代の家族も同じ悩みには苦笑させられる  
お江はあの美人のお市(信長の妹)浅井長政の間に生まれた三女で母に似て美人で嫉妬深いしっかり者 秀忠も生涯側室を持とうとしない律儀な男で男五女の一穴主義だったが彼もやはり男だった 魔がさしたと言うか小田原北条氏の浪人の娘で神尾志津と言う27歳の美人侍女に手をつけて懐妊させた 志津は身を隠して江戸城を退き大宮にある氷川神社に願をかけた「どうぞお腹の子が男児で安産 母子共に健康でありますように」と 今この祈願文は大宮市の指定文化財となっていると言う 徳川御三家に次ぐ会津潘も元を辿れば浪人の美人侍女が出発とは 亦別本には江戸板橋在の大工の娘お静ともある だから歴史は面白いのです(参考 福島県の不思議事典 新人物往来社 歴史と文学の回廊 鰍ャょうせい)
   碑にはキリシタン大名レオ蒲生氏郷の治世に猪苗代には城代岡越後を始め多くの熱心な信者があったが、元和8年(1622)より弾圧が起こり、寛永元年(1624)将軍家光の命により棄教に応じない信徒は悉く処刑され亡骸はこの地に葬られた」。と彫られている
上左 三忠碑 猪苗代摺上原
葦名義広の家臣金上盛備 佐瀬種常・佐瀬平八郎の碑で3人ともども討死にしながら主君を救った忠臣の碑 會津藩主松平容保公が建立 この文字は唐の書家顔真卿の書体を集めて刻まれた珍しい碑文

 延喜式内社磐梯(いわはし)神社 猪苗代町
AC250年頃の応神天皇のころ武内宿祢の陸奥巡視の折磐梯山山頂に大山?神・埴山姫神二神を祀るに始まる 天平元年(729)に応神天皇と神宮皇后を合祀し現在地に移る 前の大杉樹齢900年の幹から出てるのは桜の枝で4月には桜の花が咲きます 縁結びの大杉です
左中 名家老田中正玄の墓
土津神社と磐梯神社の間の狭い道を下りた藪の中に會津保科家の日本三大家老の一人 正之をして『あヽ天何ぞ彼を我に先立たせか 正玄ここにあるか 我も近く参るぞ』とその死を嘆いたという

             会津嶺 会津の海 其の3