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上から➡この城は江戸時代の一国一城の例外として幕末まで残された稀なる城である
左 城内二の丸にある野口英世の像 銅版には 野口英世博士
科学者 人道主義者・殉教者
米国加州アラメダ海軍航空基地教会は米国民を代表して
日米友好親善の象徴として日本国民へ寄贈します
1956年11月3日 と日本語と英語で彫られている
会津嶺 会津の海 其の4
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上 長昭寺にある野口英世夫妻の墓碑
右 英世の父母の墓
左母野口志賀刀 右父佐代助 母志賀刀の墓石の後ろには生年月日から没年そして経歴や英世の功績等が彫られているが父佐代助の方には何も彫られていないのは何故でしょうか 母の名はしょっちゅうイベント等に出てくるが父の影は薄いの何故でしょうか
左 野口英世
彼は明治9年11月9日耶麻郡翁島村に生まれた 明治21年7月15日の磐梯山の大爆発の12年も前である 11歳の時には先生の変わりに勉強を教えたと言うほどの秀才だったと言う 然し貧乏の割にはお金には相当ルーズで金銭感覚は0だったようだ 知人 恩師と相手かまわず借金を依頼している お金を借りる名人で返さなくとも意に介さず中には結婚詐欺までしたようだ(明治33年渡米の費用にと小林家から200円、斎藤家から帰国したら娘さんと結婚する約束で結納金として300円贈られましたがその気は無かったようだ) アメリカで成功しても日本に帰るのに当り 友人のいわき市錦町出身製薬会社社長星氏に電報を打ちます。 「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」 現星薬科大学は彼の創設である |
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国重要文化財 天鏡閣 迎賓館とは打って変わってルネッサンス風の純洋風建築である 外見よりもロココ調のシャンデリヤ 暖炉 アールヌーボー調の家具 調度品は一見に値する 欧州に対する近代明治日本人の心意気が伝わる必見の内装備品だ 明治40年有栖川宮威仁親王殿下の東北巡幸の折猪苗代湖の余りの風光明媚に魅せられ御別邸建設を決定した 大正天皇が翁島ご別邸5日滞在された時ここを「天鏡閣」と命名したのです 李白の詩「明湖天鏡落」に由来する 大正13年には高松宮宣仁親王が継承したが昭和27年福島県に下賜された |