上 葦名家壽山廟跡 小山田山の中腹の斜面に跡のみがあ墓石はなかった
 花見が森廟所跡碑
  佐原十郎義連の墓 熱塩加納村半在家 会津と言えば神話時代を除けば松平・蒲生等が著名だが史実に最初出てくるのは佐原十郎義連氏である 鎌倉の御家人で平家打倒・奥州藤原征伐と東奔西走の活躍で会津を賜った 2代目盛連の長男経連が猪苗代氏・四男光盛芦名氏となる(本拠地三浦半島芦名郷) 前者が後世伊達政宗に通じて芦名氏滅亡の一因となったのは皮肉だ 
県指定史跡佐原十郎義連の墓
 左の墓地の中にある墓碑 熱塩加納村の半在家の県道336号線の傍らにある

 は義連の居城佐原城跡ある(建久元年 1190年) 観光地には程遠い熱塩加納村と言う会津の一番の北部にある
上 河合継之助埋骨の碑 建福寺
芦名家廟所のすぐ近くに建福寺がある その墓地の丘陵に河合継之助の埋骨の碑がる 朝敵となった会津を中心に陸奥27藩奥羽列藩同盟につぐ長岡藩を含む北越6藩が加入奥羽越列藩同盟を結成したがその長岡藩家老が河井である 西軍に敗れた河井は藩士家族1800名とともに越後・会津の山中の国境を越え会津へ逃れようとしたが只見町でその生涯を42歳で終えた 
八十里 腰抜け武士の 越す峠 
河井の自嘲的句だが峠を越えた所の現只見町で北越戦争で受けた流れ弾がもで破傷風の為に死亡した 遺骨は会津に運ばれたが墓石を暴かれるの恐れ松の根元に埋め置かれた その後遺骨は長岡市河井の菩提寺栄涼寺に埋葬された
左端 花見が森芦名家累代の墓
累代とあるが墓石は3っつしか見つからなかった
上中 花見が森廟所 左16代盛氏 右18代盛隆
左 十七代盛興 
花見が森廟所にはこの3人の墳墓のみなので他の藩主は壽山廟跡なのか?
  居城あとに現在も佐原義春氏が住んでいるが実はそこに義連のお墓がある そのおばあちゃんの話によるとこれが本物のお墓なのですよ と話していた 死んだら『会津の里の見える所に墓を作れ』 との遺言で上の半在家にもあると言う 結局義連の墓はここと上の半在家そして横須賀の佐原と3っつある事になるのかな  三浦氏は鎌倉幕府創設以来の重臣で三浦半島一帯に勢力を誇った 然し1247年(宝治元年)の宝治合戦執権北条時頼に敗れ一族は滅んだが其の時北条時頼側についたのが佐原十郎義連の孫盛時・光盛・時連であた 北条氏は有力御家人の領地を次々没収し直系の所領とした これが所謂得宗領と呼ばれるもので会津も北条氏の得宗領となった この時親密な三浦惣領佐原氏が会津地頭代に任ぜられたのである 芦名(佐原)氏会津進出のいきさつである 20代義広まで400年の内16代盛氏のときが威を四方に張ったので中興の祖と云われるが子供運・婿運に恵まれず水戸佐竹氏から迎えた義広も伊達正宗に破れ芦名家は滅亡した その敗れた義広と芦名れんみつ姫が後に秋田角館1万5千石の領主となり今や陸奥の小京都と呼ばれる人気の観光地になっている まことに歴史の不思議である
会津の里 其の5