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秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高 母律子 58歳
なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たまわぬ節は ありとこそ聞け 妻千惠子38才
死にかへり 幾度世には 生まるとも
ますら武雄と なりなんものを 妹眉寿子26才
もののふの 道と聞きしを たよりにて
思い立ぬる 黄泉の旅かな 妹由布子23才
手をとりて 共に行なば 迷はじよ(次女漠布子13才)
いざたどらまじ 死出の 山道(長女細布子16才)
この他三女田鶴子(9才) 四女常盤子(4才)五女季子{2才)
をはじめ律子の実家小森家 支族西郷鉄之助家含む21名である150年前の日本人はかくも凛としていたのです まこと異民族の文書を見る思いです
上左 西郷頼母の邸跡の碑 鶴ヶ城のすぐ北
北出丸大通二面して西郷邸があったが今はなく自刃の跡は微塵もない 向かいには裁判所・国県の合同庁舎がる 西郷頼母は会津落城後も大鳥圭介らと函館戦争に参加したが敗北、会津戦争の責任をとって死を覚悟したが放免、館林市に幽閉されたり松崎町で謹申学舎の塾の講師 そしてその後福島県棚倉町の都々古別神社の宮司 松平容保公が宮司をしていた日光東照宮の補佐役禰宜として 更に伊達郡霊山町の霊山神社の宮司を勤めた 最後は会津に戻り市内の十軒長屋で74年の生涯を終える
左 西郷頼母夫妻の墓 善龍寺
夫妻の人柄が偲ばれ隣接する一族の墓の中で一番小さい墓石である
右 なよたけの碑 手前がなよたけの歌碑 善龍寺 |
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左 会津士魂の碑
膳龍寺
筆作家早乙女貢氏
会津の里 其の6
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