女子21人の自害の墓 建福寺の南1kmに善竜寺がある ここに少年白虎隊以上の会津の悲劇の象徴とも言える女子21人の自害の墓があるのです 家老西郷頼母の妻千重子の辞世の歌に会津女性の原点を見るのです 善竜寺は保科正之の移動に伴い信州高遠・山形・會津と移ったもので山門は白い丸みのある楼門で竜宮城を思わせる
 婦女子21人の辞世の歌 まことに悲しい歴史の墓である 会津落城に接し千重子以下20名は白装束に身を固め自刃した其の時辞世の句が下 
  中野竹子の像
 
戊申8月23日衡鋒隊に加わった竹子はこの地で長州・大垣藩と遭遇し激しい戦闘となり銃弾を受けて壮烈な死を遂げた 23歳


辞世の歌
  武士の 猛き心に
くらぶれば 
    数には入らぬ
わが身ながらも


  秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高            母律子 58歳
なよ竹の 風にまかする 身ながらも 
          たまわぬ節は ありとこそ聞け
    妻千惠子38才
死にかへり 幾度世には 生まるとも
            ますら武雄と なりなんものを
  妹眉寿子26才
もののふの 道と聞きしを たよりにて 
             思い立ぬる 黄泉の旅かな
   妹由布子23才
手をとりて 共に行なば 迷はじよ(次女漠布子13才)
           いざたどらまじ 死出の 山道(長女細布子16才)
この他三女田鶴子(9才) 四女常盤子(4才)五女季子{2才)
をはじめ律子の実家小森家 支族西郷鉄之助家含む21名である150年前の日本人はかくも凛としていたのです まこと異民族の文書を見る思いです 

 上左 西郷頼母の邸跡の碑 鶴ヶ城のすぐ北 
北出丸大通二面して西郷邸があったが今はなく自刃の跡は微塵もない
 向かいには裁判所・国県の合同庁舎がる 西郷頼母は会津落城後も大鳥圭介らと函館戦争に参加したが敗北、会津戦争の責任をとって死を覚悟したが放免、館林市に幽閉されたり松崎町で謹申学舎の塾の講師 そしてその後福島県棚倉町の都々古別神社の宮司 松平容保公が宮司をしていた日光東照宮の補佐役禰宜として 更に伊達郡霊山町の霊山神社の宮司を勤めた 最後は会津に戻り市内の十軒長屋で74年の生涯を終える 
 西郷頼母夫妻の墓 善龍寺
夫妻の人柄が偲ばれ隣接する一族の墓の中で一番小さい墓石である

右 なよたけの碑 手前がなよたけの歌碑 善龍寺
 会津士魂の碑 
膳龍寺
筆作家早乙女貢氏


会津の里 其の6