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上 甲塚古墳の隣にある大国魂神社由緒板
大國魂仁神社1300年の伝統を誇る古社 近くに行政の中心として根岸郡衙・夏井廃寺跡や多数の古墳郡はここが石城国の「まほろばの地」だったろう
左上下 国指定史跡甲塚古墳
いわきの多くの古墳からは九州・大和・関東東海のそれにに共通する出土品が多数出土する それらの共通の氏族は神武天皇の嫡子八井耳命を祖とする多氏(於保氏)とある 大国魂神社古伝によれば兜塚は初代石城国造建許呂命の墓と云う 国造本紀には政務天皇の御世(135年)9月全国を阿64カ国仁分その1つ石城国には建許呂命が国造(クニノミヤツコ)に任命された 「彼は高市県主の天津彦根命十二世孫建許呂命の後也」と姓氏録和泉国神別に載っている 彼は海路小名浜に上陸し城を築き神城(かじろ・現在の上神白・下神白)と称した その後現下大越に移った(王が越えて来たから) ここが磐城郡衙跡となる現根岸遺跡である その2・5km北東に大国魂神社と甲塚があるのです 同じ陸奥福島でも中通上毛野氏と云う蝦夷討伐軍と浜通りの国造とは質的に大きな違いがるようだ。史実とも神話ともとれる想像を掻き立てる地なのだ |
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上 尼子橋
岩城領主岩城成衡(則道)の夫人徳尼御前が大雨のたびに難儀する民を哀れんで建立したと云う伝承が尼子橋と呼ばれる 彼女は亡き夫を弔うためあの内郷にある国宝白水阿弥陀堂建立でも有名 彼女は藤原秀衡の養女で常陸大掾多気宗基が前9年の役で宗基宅に宿泊した義家に提供した娘との間にできた女性である 信じられないのだが成衡なる人物もじつは後三年の役の発端となった人物で清原真衡の養子となった人物と同姓だ 後3年の役後本来清原嫡流なる成衡が遺領を継ぐべきなのに源義家の介入により義兄弟の清衡と家衡に奥6郡は分割された 成衡の消息はきえてしまうのである 岩城氏系図の中に海道小太郎成衡なる人物がいるがこの人物は岩城氏の祖と云う説もあり同一なのか中々不明のようだ |