上  瀧夜叉姫之墓  玉山古墳の裏側 恵日寺の数百m北西部にある
墓碑には 嗚呼 瀧夜叉姫之墓 と彫られている
下左  玉山恵日寺 平将門三女法名如蔵尼 滝夜叉姫終焉の地とある
下右 瀧夜叉姫の墓 法名如藏尼
右 
恵日寺境内にある如蔵尼滝姫の歌碑 

奥津城に かわる社や 国神の 
 永遠にまもらめ 天地の和を
 如藏尼 瀧姫

                
   県指定史跡玉山前方後円墳
 陸奥三指に入る大きさを誇る玉山古墳だが余り大きいので小山に見える 4〜5世紀と古い 何と手前の川を玉造川(仁井田川) 橋を玉造橋と言う 宮城県に玉造川(江合川)がる
    四倉町玉山県道41号線沿いにある玉山恵日寺 恵日寺と言えば会津磐梯町徳一大師が806年(大同元年)開山したと言う国指定史跡の恵日寺が有名だがいわき市にもあったのです ここにあの平将門の名を見て驚きました その三女滝姫終焉の地とあるのです 調べてみると何と会津磐梯町と秋田県生保内町にも瀧夜叉姫伝説があるのです 桓武天皇の6代目の由緒ある皇統の子孫である将門はそれを無視して新天皇を名乗って東国の独立を図ったが俵藤太秀郷に敗れ斬首された後将門の息子良門と瀧夜叉姫は父の仇を討つべく果たせず下総の相馬が原の野馬追いに紛れて逃走してと言うのです 奥州のこの地に逃れてきたのだがあの義経北帰行説に似ているのは判官びいきのなせるわざでしょう それだけ坂東に於ける将門人気の高さの現れでしょう 坂東の民衆にとって大和朝廷からの独立は防人として九州や蝦夷征討のため陸奥への兵役義務や物資調達等律令支配の苦役からの解放意味しているのです 又将門自身も戦術にたけ腕もたち律儀さと義侠心が熱く民衆に近い心情の持ち主だったらしい つまり義経みたいな人物だったらしいので人気沸騰したのです この近くには3世紀末と言われる全長118mの豪族の玉山古墳があり中々歴史のある所なのです  瀧姫歌碑の隣には 同じような形の石で小野小町の歌碑があった 
山里の 五十路の坂を 超えぬれば 刈穂の庵は心なごみぬ 如秋尼小野小町
左  四倉旧浜街道

旧国道6号線にある3本の黒松の松並木 300年前平藩内藤氏の時代に植えられた 松の間が狭いのは苗木が植えられたままの証です
 
許奴美の浜 其の2