左上下   赤木神社  右上下
逢瀬川下流の南側にある丘陵地帯 郡山安積の原点はここ阿賀岐(赤木)山にありその精神がこの赤木神社にあるのです 第十三代成務天皇(在位西暦131年1月15日~190年6月11日)5年勅命により比止禰命が安芸の国からここ未開の地に赴き阿尺の国を開いたのです(実際は4世紀頃か?) そしてここ赤木山(現赤木町)に御先祖である天湯津彦命と若々しい生命力を生む和久産巣日神阿尺の国神として祀ったのが安積の始まりです その後比止禰命も合祀されて国造神社と号したのです   更に坂上田村麻呂が八幡大明神を合祀されたが天和3年(1683)には八幡大明神は稲荷大明神とともに現清水台へ奉遷され祀られたが赤木神社の三神はそのまま赤木山に残ったのです 明治5年になって赤木神社3神も清水台へ奉遷されて5神合祀で現在の安積国造神社となったのですが赤木山には今も古式則った拝殿が残されそのまま三柱の神様の御幣が祀られてるのです 神社の外見は貧素に見えるが之は雨風を防ぐ覆いであり奥様がわざわざ開けてくれ た その中に飾り気のない小柄で質素で素朴な拝殿は古代原始信仰の雰囲気を今に伝えているのですとは奥様の話 宮司の安藤氏一族は比止禰命の末裔とされ由緒ある氏名なのです(赤木神社御由緒栞)   実はこの市内のど真ん中にある赤木山は山と云うが本来は古墳なのです 郡山東部にある東北一を誇る前方後方墳大安場古墳(4世紀後半)に匹敵すると云う赤木古墳だったのです 一説には比止禰命が葬られてるのではないかと推測する方もいるのです ここから南部一帯の清水台には郡山郡衙史跡がありあの葛城王(橘諸兄)も滞在したのです この辺りは正に神話と史実が接近した古来禁足の聖地で昭和37年頃までは幣導内(へいどうない)と云う高貴な地名だったが奥様は町名変更を残念がっていた 今や34万都市の真中でその発掘調査は困難を極めてるらしいのです
  赤木神社 これは覆いです
安積開拓の祖比止禰命が赤木山に安積国の宗廟として和久産巣日神と天湯津彦命をお祭りしたのが神社の始まりで➡
 
安積発祥の地碑と安積国造神社
➡安積開拓の祖の神として功績なった比止禰命は赤木山の宗廟に合祀され国造神社と号した その後坂上田村麻呂が宇佐八幡大神を合祀し中世安積領主伊藤摂津守が稲荷大神を合祀しこの清水台の地に奉遷され三社を合祀して安積国造神社となる
左上下
県指定有形文化財
開成館
郡山と言えば安積開拓の歴史です それらの資料を一堂に集めたが開誠館

逢瀬川
 其の3

 


下中像 
儒学者安積良斎(ごんさい)像
 
安積神社第55代宮司安藤親重の三男 江戸昌平坂学問所教授 門弟3千人の中から小栗上野介・吉田松陰・岩崎弥太郎・前島密等の200名にのぼる偉人を輩出した
  創成期の原始赤木神社
上の覆いの中にある小柄で素朴ながら創世紀の神社の原型を示しているのだそうです 
奥様談