阿津賀志山  下 阿津賀志山頂から阿武隈川河畔まで鎌倉軍防衛に平泉軍が掘った二重堀跡 吾妻鏡では口五丈堀 地元では二重堀と呼ばれ藤原泰衡の異母兄国衡が将として17万の頼朝軍を迎え撃つため3・2kmにわたり掘られた防塁遺構である 然しこの防塁も文治5年8月8日からわずかに2日で破られていまった 正に古戦場の名残でしょう

芭蕉奥の細道の一節の碑  旧奥州道中大木戸の坂
 右タンクローリが国道4号線 芭蕉が歩いた奥州道中長坂跡は左方50m位の所ににあり更に其の上に東北本線・東北高速道がありまさに時代の変遷が味わえる 
左 阿津賀志山山頂にある古戦場の碑
吾妻鏡の一説
が彫られている 頼朝本隊と平泉本隊が正面激突した最初で最後の戦場 平泉4代100年の仏教求和の生活に慣れた平泉軍は平家を西国に破り取って返して奥州征伐の歴戦の武者の鎌倉軍の敵ではなく かって板東武者に負けた事の無かった俘囚軍の勇猛果敢 神出鬼没の戦術もすでになく泰衡は退却一方のていたらくだったと言う


下紐の関 其の2
   7次に渡る発掘調査でこれまで考えられていたより高く大きな土塁であったことが判明した 今でもはっきりと二重の空堀跡がわかる  元の来襲に備えた鎌倉時代の福岡博多の元寇防塁と並び日本二大防塁と称されるのです まさにここも 夏草や 兵どもが 夢の跡 である 右 伊達の大木戸 国見峠長坂 阿津賀志山芭蕉奥の細道の碑  
芭蕉はこの坂を気力を少し取り直して路縦横に踏んで越えたのです



 防塁跡
 阿津賀志山の麓は伊達の大木戸で現国道4号と旧奥州街道 芭蕉は奥の細道で飯塚に泊まったあと『・・・又旅立ちぬ 猶夜の余波心すすまず 馬かりて桑折の驛に出る 遥かなる行く末をかかえて斯かる病覚束なしといへど 羇旅邊土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん是天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす』と記述してあり、痔病を抱えて国見峠に難儀している 上画像に奥の細道の一文が掘られている碑である  曾良旅日記には『桑折トカイタの間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有』と書いている