高瀬の清水のある双葉郡浪江町から7〜8km南部に双葉郡双葉町がある 東京電力第一原子力発電所以外は目立った産業の無い鄙びた町ではある 然しここが何と志賀直哉とは深い縁のある町なのです。双葉町図書館で拝見した「志賀家と双葉町」と云う資料には直哉の父直温までの事が比較的分かりやすく記載されてるのです 要約すると 志賀家の祖先は近江の国志賀城主志賀備中守直為に始まり4代目直之から代々相馬潘主に使えていた。直哉の會祖父直庸(なおつね)が9代目・祖父直道は10代目に当る 直道は明治維新までは直庸の家職相馬潘物頭・普請奉行をつぎ200石の武士であった 又直道は二宮尊徳の弟子で尊徳没後も其の子尊行(弥太郎)と共に日光神領の荒地開懇整備等にも従事していてここ標葉郷(現双葉郡)の者も多数出役したと云う 明治維新後は祖父直道は廃藩置県により明治5年旧相馬潘32名の一人としてここ双葉町に土着したと云う  住居跡は街中の旧6号線沿いにある現石田医院の南隣辺りだったと云うが隣の床屋さんに聞いたら志賀直哉の事は知らないとの返事だった(標柱も何も無いのは勿体無い)又會祖父直庸夫妻・祖父直道の兄直員(なおかず)の娘夫妻の墓も町内にある自性院境内にありその墓守を当時隣の石田家に依頼していたと云う 又道直の八人兄姉妹の内6人は当地方に住みその子孫の方々も現存していて志賀家の親戚として直哉自身と交流していた者も多いと云う 土着した直道はその後相馬家の家令に就任して東京麹町内幸町の旧相馬藩邸に住み疲弊した相馬家の財政立て直しに尽力して後に古河市兵衛と共に足尾銅山を開発(渡良瀬川鉱毒事件)し相馬事件(お家騒動)にもかかわった人物だ。現双葉郡大熊町在住の伯父半谷家には子供の頃よく遊びに来て暫く宿泊している 東京に出た父直温は後に総武鉄道・帝国生命(現朝日生命)の取締役を歴任し後に第一銀行に入行し宮城県石巻支店長として再び陸奥に赴任し直哉は石巻で生まれたのです 直哉12歳の時母銀が亡くなり後妻に24歳の浩(こう)が新しい母なってその後6人弟妹が生まれたのです・・・とある 双葉町でもこれら親族の家に残されていた直哉直筆の書簡・色紙・写真等の資料約30点ほどし展示して志賀一族とこの地方の親族関係を明記して直哉と父・祖父母と家族間の激烈なる愛憎ドラマによって生まれた志賀直哉文学の理解の一助としていたが現在は展示してはいない 明治27年1月6日の手紙として
      半谷 重固宛
(磐城國標葉郡熊町大字熊川)     東京芝公園より
 新年之賀儀目出度申す納候 昨年中は一方ならざる御懇情を蒙り奉謝候 今年も不相変御厚情誼之程偏エニ願上候 次ニ卅日には東京に珍き物沢山に被下有が度存じ候也 不宣
       半谷 重固様                       
志賀 直哉
一例として記載したが磐城國は現福島県であり標葉郡熊町は昭和29年11月1日大野町との合併で大熊町となっている 旧熊町は熊川村・熊村他5村からなっていた。更に相馬潘は父直道が二宮尊徳の弟子と書いてあるが相馬潘と二宮尊徳とは極めて深い縁があるのです。天明3年(1783)から3年間も続いた天明の大飢饉に於ける相馬藩主翔胤(よしたね)・樹胤(むらたね)・益胤の時代に潘士富田高慶は窮状を見かねて二宮尊徳への弟子入り苦難の末二宮四大門人の一人となり後日二宮の一人娘(ふみ)と結婚している。又尊徳の息子尊行も晩年相馬中村に移り明治4年12月1日51歳病死して現南相馬市原町区石神に葬られているという。四人のうちのもうひとりも相馬潘士で甥の斉藤高行である。そして益胤の子充胤のときになって二宮仕法(ノウハウ)を採用し、更に日光浄土院の僧滋隆を招いて仕法の実践に全力を尽くしたという。こうした二宮仕法の導入・実践により50年後の天保の大飢饉では一人の餓死者が出なかったも言われている。この小さな町にも中々大いなる歴史を秘めているがそれを知る町民は最早少ないのでしょう。(平成22年1月11日)(参考 双葉町史 志賀直哉全集巻10・12・14 滑笏g書店)





 双葉町町内旧国道6号線沿いにある石田医院である 幕末ごろ志賀家の墓守をしていた 其の先に祖父直道の居宅があったと云う それ以外志賀直哉に関するものは何も無いという



   高瀬の清水 其の2 



左 国指定史跡清戸迫76号装飾横穴古墳  双葉町
ベンガラの顔料で1400年前の古墳時代末期と云う 東北でも珍しい装飾横穴墳墓である
 双葉町歴史民族資料館にあるレプリカであるが装飾古墳は殆どが福島県浜通の北部に多いという 本物史跡には平成21年以降中に入れない