上 県指定史跡流の廃寺跡 9〜10世紀の仏堂で多数の瓦が出土した 平安時代の山岳寺院跡で十数軒の礎石を持つ建造物が確認され金と銀で象嵌された鉄剣も出土している 一説によると岩背・石城が陸奥から独立した(718年)時の国分寺・国分尼寺として創建されたのではないかと推定されている

それにしても何故に阿武隈山中の東白川郡と云う田舎の更にその山中にこんな立派な文化の跡があるのだろうか 官道常陸道の中心地だったに違いない は常陸道にあった二つの駅家の高野と長有のうちの長有が訛ったものではないかとも言われてる

棚倉城のお堀  人口8000人の街にしては堀も深く中々立派な城跡なのだ 此処棚倉城の初代城主は何と柴田勝家とともに織田信長の重臣丹羽長秀の子長重が5万石で入府して以来260年の間に8家16代の代替わりが激しかった 又『落ち行く先は棚倉よ』と揶揄されるほど左遷的なイメージ強い所だが関東・中部・関西の城主お陰で東北弁でも一種違う訛りだそうだ   時代感じるお城近くの望楼      
 八槻 其の3A  
 白河市指定史跡月夜見の櫻  表郷三森

三森の建鋒山の麓 古代常陸道の傍らに大木がある この大木樹齢700年の槻の木(欅)にもかかわらず何と月夜見の桜と云うのです 説明板によると往時日本武尊が此処三森を通った時大木の葉っぱが月の光で咲き誇る満開の桜の花に見間違えた故事にちなんで月夜見の桜と呼ばれているのです  斉明天皇の白稚年間あの大化の改新(645年)の立役者中臣鎌足(藤原鎌足)が下向した時に

  陸奥や ふりわけ見れば 都々古山 
     月夜見さくら 澄める有明


と一首詠んだという 鎌足の下向の真偽は兎も角 驚く事は其の時代に既に都にもここ祭神の地が知れわたっていた事でしょうか 樹齢と大化の改新との時代では600年の差があるがきっと2代目の大木くなのでしょう 伝承は詮索など野暮なのです
  槻(欅)をかけてるかもしれません
私は十五年ほど前に、白河の停車場をおりて、そこで車をやとって、そして棚倉の方へ行ったことがあった。・・・私は私の姉の婿の住んでいる棚倉へと志して行った。・・・それは春の四月頃であった。未だ寒い頃で東京の花はもう散って了っていたが、山里ではまだ蕾も固いという風であった。私の車は村から村へと通って行った。感忠銘のある傍らだの、人なつかしの山の傍らだのを通って行った。阿武隈川の流れはそこでは狭く小さかった。面白ではないか、私はそこまで、養子として、見合いに出かけたのだ。古い社ー国幣中社ーそういえばすぐわかる都々別の神社だ。棚倉の方にあるのではなく、八槻の方にある神社だ。其処に伺った。養子に行かないかと、こう云う話であった。そこには娘がいた。景行天皇以来の旧社で、道興准后の廻国記にも出ているような社だ。昔は水戸の家老の家柄あたりからでなくては嫁をとたったり婿をとったりしなかった位の家だ。どうだ世話してやろうと思うが、行く気はないか こう義兄は言ってよこした。・・・白河から棚倉まで五里あった。田島、釜ノ子など、いう処があった。私の車の走って行った路は、久慈川の谷を常陸の太田へと出る街道であった。私は日の暮れ頃に、棚倉のすぐ手前にある城屋の山に沿って、そして寂しい心を抱いて義兄の家に行った。・・・私はとうとうその娘を見ずに帰ってきた。然し見ずに帰ってきたと言う事が、私のこのローマンスにいろいろな色彩をつけることになったのである。・・・しかし不思議なものだ。棚倉付近の風景や、白河から棚倉に行く田舎道のさまや、雑木林や、久慈川や、寺山の眺め等がはっきりと今日まで頭脳に残って印象されているのは、その一度も見た事も無い娘の為だから面白い。今でもー二十年も経過してしまった今でもーもう一度其処に行って八槻の宮司の家をたずねて、その娘さんに逢ってみたいと思っている。
                         
もりかげの 社のなかに 相みつる おとめの裳裾 今もわすれず  田山花袋
・・・私は宮司と種々な話をした。通興准后の歌の短冊はあるにはあるが、当社にとっては大切な宝物なので奥深くしまってあるのでチョット出して来て見せる訳には行かないと言う語気であったが、私はたって望んだ上に、金を一圓紙に包んで出したので、『それではチョットお待ちなさい』と言って、宮司は奥に入って行った。・・・やがて宮司は大きな古い桐の箱を持って入ってきた。今度は着物を着替えて、乱れた髪なども直していた。袴も白い袴にはき替えていた。重々しく其れを其処に置いて、「これは當社の宝で、東京の大学にも度々出して承認を経たものだですから、普通には容易にお眼にかけないかけない様になっておりますのですが特に異例としてお眼にかけますが・・・』かう言って勿體らしく桐の箱の紐を靜かに解き始めた。桐の箱には、『道興准后自筆の御歌』と書いてある。依然として元のままである。宮司はそれを明ける前に、道興准后が此処に来て泊まった時の話をくどくどと話して聞かせた『白河から此方にお出になって、そして當社にお泊りになった。その時、丁度花が真盛りで、それで此のお歌を御詠みになったのですが、其の頃は當社も盛で、社なども余程大きく、祢宜・雑掌なども非常に多かったといういふことです。今から丁度四百年前・・・』二十五年前に矢張りかうして前の代の宮司が話した事を私が思ひながら、つとめて真面目に其の話を聞いてゐた。
                         
梓弓 八槻の里の 櫻がり 花にひかれて おくる春かな   准興道后
といふ道興准后の自筆の歌は、やがて私の眼の前に展かれた。私は凝っとそれに見入った。『成るほどこれは立派な宝物です』かう言って、私はさも歴史家でゝもあるやうに、又は古文書鑑定家でゝもあるやうに、真面目に心から感心したやうに言って、それを宮司の方へ戻した(ある訪問 田山花袋棚倉町教育委員会社会教育課)