阿自久痲山 国指定史跡平沢官衙遺跡と建物の後ろが阿自久痲山に比定されている さらにその後ろの二つの峯が筑波山  遺跡は一千年前の筑波郡の役所跡  国指定史跡小田城(上・下)
南北朝時代7代治久南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え南朝方の関東の拠点として戦った 親房は小田城で神皇正統記を執筆したのは有名だ 室町時代は小田氏は関東で最も格式の高い名家をさす「八屋形」の一つ数えられた(説明板)
多気太郎義幹の墓 (筑波山麓)
 義幹は桓武平氏の流れで桓武天皇の子葛原親王より11代目に当たる 三代高望王より平氏を名乗り4代良望は常陸大掾に任ぜられ平国香を名乗る 六代目維幹は水守からここ多気城に映り初代城主となり直系の子孫が常陸平氏の本家筋に当る 維幹より6代目城主が多気太郎義幹である 維幹の孫・重幹の息子の代に常陸平氏の諸氏が形成される。多気の姓は長男の致幹が継承するが、致幹は『後三年合戦記』等で「多気権守宗基」という名で登場する。致幹は娘を河内源氏の源頼義に提供し一夜を共させた結果娘を儲けたとされる。その娘が出羽清原氏の家督を継いだ成衡の妻になるが、その婚姻の席がきっかけで後三年の役が勃発したことは有名である 
左 つくばの道道標 
筑波山の麓県道138号線とつくば道の北条仲町の門にある 高さ3mもある
多気太郎義幹は名君の誉れ高く現在町内を流れる通称裏堀を開削し水利に多大の貢献をしたが源頼朝の全国支配の進展により支配下にあった小田の地に信任の厚かった八田知家が進出し義幹は知家の謀略にあい領地を没収された 知家は藤原北家の流れで宇都宮氏と同系で常陸守護職に任じていたが頼朝亡きあとは北条氏の進出によりその職も失った(説明板)
阿自久痲山 U