陸奥の有名な歌枕の一つ「末の松山」は宮城県多賀城市八幡の末松山宝国寺裏にある樹齢500年のに二本の松 相生の松(連理の枝)である。往時は近くまで海岸線があったようなところで古来多くの文人墨客がそこに魅かれてやってきたところである。所がここ岩手県二戸郡一戸町一戸字大越田の山中にも末の松山があるのです。勿論海とは縁遠い峠で在り「波越さじとは」のフレーズの地とは思われない所である。又浪打峠の「浪」もこの山中では不自然である。有るのは山波ばかりである。大日本地名辞書には『・・・その状恰も波まくらの岩石を浸し波打ち寄せたる如くあれば土人之を奇として波打ちの名を命ずる致しならん』とある 一戸ICで下りるがなんしろ狭い山中のICのトランペット道路に4号国道・5号県道・市道等の細い道が入り組み思うようにわからない。道を尋ねて「末の松山」と聞いても分からない。やっとの思いで旧奥州街道をみつけ薄暗い細い砂利道を恐る恐る辿るとやっと峠に着いた。昼猶薄暗く人気のないそこが「浪打峠」で然も国指定天然記念物の峠なのです。何やら珍しい交叉層をなしているのだそうだ。素人の私には全くわからない。でもここが歌枕の地「末の松山」でありこの峠越えれば二戸市となる。車一台がやっと通れる寂しい広大な山間部は古代爾薩体(ニサタイ)と呼ばれる蝦夷の本願の地でもあった。現在も二戸市と金田一温泉の間に仁左平(ニサタイ)の字名で息づいている。一戸町へ旧奥州街道を来ると他地域では殆ど消滅した一里塚(川底・上女鹿沢・下鹿沢・浪打の一里塚)が見事に保存されていて高速道路ICとは時代のコントラストを垣間見る事が出来る。。この末の松山(浪打峠)を下ると二戸市である。ここは南部氏の一族九戸政実の居城九戸城がある。 彼は秋田八郎潟東部の大河兼任と共に時の陸奥の征服者に個人で立ち向かった数少ない気骨ある人物である。大河兼任は頼朝が平泉を征服し愈々奥州経営に乗り出した文治6年正月彼は自ら伊予守義経と称したり木曽義仲の嫡男朝日冠者称して同志を募り天下の征夷大将軍頼朝に反旗を翻し、先ず背後の津軽の鎌倉の御家人宇佐美実政を打ち破り平泉まで侵攻した。詳細は省くが中々人望があったらしく秋田を出たとき7000の兵を八郎潟の氷が割れ5000人が溺死したにもかかわらす平泉到着時には10000の兵士に膨れ上がっていたと言う。勿論彼は最後は樵に殺され宮城県栗原郡栗原寺に眠っている。この位の気概が泰衡にもあったならと悔やんでも後の祭りである。これと同じように豊臣秀吉に刃向った九戸政実も魅力的人物である。南部家の宗主争いから三戸南部信直との権力闘争となったが信直は自力では抑えきれず以前から本領安堵の朱印状を秀吉から受けていた信直は秀吉に奥州再仕置軍を要請した。やって来たのは甥の秀次・蒲生氏郷・浅井長政・石田三成・伊井直政等当時の有名武将以下10万の軍勢がたった5000の軍に押し寄せたのです。天正19年正月から9月降伏まで難攻不落の九戸城だが南部家縁の僧の説得により一族郎党を救うため剃髪して城を出たのである。彼は宮城県三迫まで連行され150人の武将とともに斬首 ホッとしていた篭城の婦女子を始め城内の生とし生きるもの総てが殺された「九戸のなで斬り」があったのです。ここは蝦夷本願の爾薩体のこれまた悲しい陸奥の滅びの地でもあるのです(平成17年9月24日)
(参考 秋田県の歴史・岩手県の歴史 河出書房新社・大日本地名辞書・富山房)





 
一戸町の山中にある小井田橋の四隅の欄干には浪打峠にある交叉層(クロスラミナ)をモチーフにした上の様な素敵なレリーフのある橋で末の松山の古歌で作られている
  国指定史跡奥州街道浪打峠 末の松山 
二戸郡一戸町と二戸市の堺の峠

末の松山 其の2