上左 妻入り会館と北國街道 北国街道出雲崎の4kmも続く妻入の街並(妻は端を意味し端に入口があるので妻入と云う)国指定歴史街道
右 俳諧伝灯塚(出雲崎妙福寺)

元禄2年出雲崎に一泊して「荒海や・・・」の名句を残した その後蕉門二世の東華坊・三世の蘆元坊もまたこの地を訪れ感慨に更けり下の句を残した 古い方は宝暦年間・新しい方は大正年間に建てられたもの
荒海や 佐渡によこたふ 天の川  芭蕉
雲に波の 花やさそうて 出雲崎 蘆元坊
五月雨の 夕日や見せて 出雲崎 東華坊
上中  おけさ源流の地の碑
陸奥信夫の庄佐藤庄司元治の妻音羽(飯坂の菩提寺医王寺では乙和)が屋島と京都で亡くなった継信・忠信の戦場を訪ねんと陸奥飯坂を発ちようやくここ出雲崎に辿りついたが余りの長旅に断念して尼瀬の釈迦堂(現善勝寺)で尼僧となって二人の菩提を弔ったという 今に伝わる出雲崎おけさは建久2年(1190)義経の為に立派な最後を遂げた子供たちの詳報を聞いて音羽が嬉しさの余り尼僧たちと袈裟法衣のまま歌い踊ったのが始まりと云う 
「袈裟」 が「けさ」 「おけさ」となりこれが出雲おけさの源流となった(説明板)との事 
 
上左 天領の里出雲崎(道の駅) 江戸幕府直轄佐渡金山 金銀陸揚げの地左と順徳天皇御神霊御上陸之地(右) 天領の地であった出雲崎は幕府財政を支えた佐渡の金銀陸揚げの地であるとともに朝廷に逆らう罪人の遠流の地でもあったのです 承久の乱で敗北した順徳天皇は24歳で佐渡に流され22年後に崩御された後その遺骸が京都へと移される時佐渡から上陸された所なのです 上右下は次Pに続く→
  出雲崎 V