左・上下 田村麻呂縁の田村神社 桓武天皇の延暦年間田村麻呂将軍東夷を討ち平らげた恩徳を慕い建て奉った 尚甲冑堂には忠信・継信の二人の孝婦の像は妻の鑑として全国に知られる 義経の忠臣継信・忠信兄弟は西海と京都で討ち死にした 嘆き悲しむ母乙和にその嫁二人は甲冑姿で姑に無事帰還した姿を見せたという 其の賢婦振りが後々の世まで伝わり甲冑堂として残ったのです 


上 鐙摺坂の斉太郎蟲供養塔 白石市斉川
 
上 鐙摺坂と奥の細道  白石市斎川  鐙摺坂(あぶみずり)とは 奥州征伐の折頼朝軍本体18万が当時この険しい山道を通るとき馬の鐙が道脇の崖をこすり難儀したのでこの名がある 芭蕉も奥の細道で『鐙摺・白石の城を過ぎ笠島の郡に入れば・・・』と書き 芭蕉の跡を訪ね歩いた桃隣は陸奥衛の中で『是より才川村 入り口に鐙摺の岩あり 一騎立の細道也』と書いている  
前P 殉職地公園から見た白石川 
近くには大正11年3月宮城県女子師範学校を卒業したばかりの22歳の小野さつき訓導が7月7日4年生をつれて白石川へ野外活動に出たがたまたま3人の子供が川に流された 訓導も川に飛び込み2人まで助けたがもう一人を助けに泳ぎ出たが力尽き激しい流れに消え溺死した 昨今教育の荒廃が叫ばれて久しいが教育者への手本として今も示唆に富む事件である 今はとても穏やかな流れで3人も流されたとは見えない
左上下 刈田郡蔵王町宮小学校にある
      小野訓導の碑 

訓導の意味を知る人は少ない 先生のお手本として当時日本中の話題になり文部大臣表彰・日本全国から弐万円(現三千三百万円)もの殉職記念寄付資金があつまりさらに戦前の教科書も掲載された 殉職碑は前Pの白石川畔にある
 斎川宿奥州街道と甲冑堂(右)
白石市斎川宿
で芭蕉が通った奥州街道の桜並木
白石市斎川宿と孫太郎虫
斎川宿は昭和9年ここを訪れたブルーノ・タウトも絶賛した宿場の町並みを僅かに残しているがもう一つ有名だったのが「孫太郎蟲」でしょう 大正三年信州生まれの母がよく口にしてたのが
「♪奥州斎川名物孫太郎蟲〜♪と言う薬売りの話でした 独特の衣装を着て全国を股に売り歩き有名だったのです 右の写真にあるように皇族方へも献上されていたのです 子供のカン・虫下し・又老人になっても孫のような子を産ませる精力剤(ここから孫太郎の名が出たとか)として一世を風靡した この虫は清流にのみ棲む 「ヘビトンボ」の幼虫であるがとんぼではない
不忘山 其の3 
    
左 甲冑堂 鎧を着けた佐藤継信・忠信の妻の甲冑姿の像が安置 文亀年間佐藤信治が建立
  上 有栖川宮殿下へ献上された当時の広告
今も虫売りの仮装をする紺野新四郎さんのお店に飾られている 紺野さんは代々孫太郎蟲売りの末裔で今は団子やさんである 次ページ参照