上 19歳年上の小十郎の異母姉  喜多の墓    白石市福岡蔵本
喜多は名君伊達政宗の乳母となり少納言喜多と呼ばれた 乳母と言うより保育・教育係として政宗の名君としての素地・人格形成に大きな影響を与えた 又小十郎の母親代わりとしてその成長に大きく貢献した 又片倉家の馬印の白地黒鐘は『その名を天下に鳴り響かせよ』との喜多の弟への励ましの作とつたえている 現在も白石市の市章となっている
奥州鎮撫総督府参謀世良修三の墓  白石市福岡蔵本陣場
白石川を挟み白石城の真北にある伊達政宗陣場跡の丘陵にある ここは関が原の合戦で豊臣方に着いた上杉の家臣甘糟備後守清長の白石城を攻め滅ぼした時の徳川方伊達政宗公の本陣跡である 世良の仙台での横暴さは次の戯れ歌でも分る
「竹に雀を袋に入れて 後においらのものとする」
 世良修蔵の兵士等は傍若無人に仙台潘を嘲ったのである 尤も世良は長州藩士とはいえ元々が漁師だったらしい 高杉晋作の奇兵隊(正規兵の反対語)は藩士以外の武士・庶民・農民からなる身分に拘らない軍隊の中で出世しただけであり然も彼が連れてきたものは札付きのヤクザもんばかりで恐喝まがいの言動で仙台藩主を恫喝したという 成り上がりの参謀になった彼は頭から東北を侮蔑しきっていたのだ
 
 
右上 世良修蔵の墓 
肩書が凄い 奥州鎮撫総督参謀 とある 肩書の右には 明治元年戌辰閏四月二十日云於奥州信夫郡福島驛為賊所殺年三十四 とある 然し為賊の文字は削られていている

右下 参謀附属長州藩士勝見善太郎・松野儀助と参謀世良修蔵従者繁蔵の墓と彫られてる 
 
 片倉家御廟 
初代片倉小十郎影綱から十代宗景までの墓
がある 碑銘には後年墓参りの為白石に来た者は上西・米竹・菊池その他の家を訪ねれば宿泊させるとある 又近くには景綱の死に際して殉死した6人の忠臣の墓もある

  
右上 木戸孝允献灯
明治9年明治天皇の東北巡幸の際世良修蔵とは長州藩同郷の士の木戸孝允(桂小五郎)が歌一首と灯篭を献じたのです
あなあはれ 涙も袖に 
みちのくの しのぶにたへず 
        君をおもへば

陸奥諸藩にとり世良は憎んでも憎み切れない悪徳参謀だったのだ
 右下磐前県令献灯
当時の県知事村上光雄も世良に対して献じたものだが面白いのは当時白石は宮城県ではなく磐前(いわさき)県と云って福島県浜通りと一緒だったことです
 
     不忘山 其の5
    
    
上 徳富蘇峰の揮毫による考子堂の石碑と下 考子堂
 静岡市来迎寺から姉妹の守護仏弁財天を迎えて安置してある 徳富蘇峰は亜細亜モンロー主義 天皇中心の国家主義者で小説不如帰の著者徳富蘆花の兄である
これは寛永年間実際に白石であった姉妹による仇討ちを物語る碑である 次ページ