その後この事件は歌舞伎・浄瑠璃・講談・小説に取り上げられ色々脚色されて現在に至るのでが歌舞伎『碁太平記白石噺』ではその後姉妹は父の敵を討つため江戸に出て江戸位一の軍学者由井正雪の門下で5年間腕を磨き 姉は鎖鎌と手裏剣 妹は薙刀の実力は余燼10年に」匹敵する腕前となったと言う(白石駅前にある専念寺には二人が使った鎖鎌・薙刀が保存されている) 免許皆伝となった姉妹に正雪は三人の侍(柴田三郎衛・壺内左司馬・松田弥五七)をつけて白石へ向わせた 団七の無謀を知る藩主小十郎は丁重に5人を迎え入れ団七一門には閉門を申しつけた そして1640年(寛永17年)白石川河畔の六本松河原での公認の敵討ちとなるのである 世間では『孝女・考子の誉れ』の評判になり与太郎の『殺された近くに考子堂を建て姉妹の守護神八臂弁財天を静岡市の来迎印から迎えて安置したと言う 徳富蘇峰揮毫の碑や土井晩翠の歌碑がある  
    不忘山 其の6
      
左 八枚田 与太郎とまち・おその父娘3人が田の草取りをしてたところ 八枚の田があった
  上 真田幸村の子阿梅と大八の墓 白石市内の真ん中にある当信寺境内  白石市本町  後に阿梅2代目片倉小十郎重長の後室となり大八は残党狩りを逃れるため寛永16年片倉四郎兵衛守信と改名して仙台潘士となる 墓石には流石に六文銭ではなく一文銭のみ彫られていたのが印象的である  真田阿梅のほほ杖をついてる観音坐像の墓は歯痛のためにほほを押さえてる姿に似ていたので歯を患ってる人達がその治癒を願って削り取って持ち帰ったため変形していて殆ど元の姿を留めていないのです
左から ➡これを打ち破り城外の真田丸に陣を構える真田幸村と激戦を繰り広げたのです 大阪城落城前夜自らの死を覚悟した幸村は何と敵将片倉小十郎重長にその智勇兼備を見込みその子女の事後を託したのです(名声高い幸村の子女が欲しくて略奪したとかいろいろの説はあるようだ) 託す方も託す方だが預かる方も預かる方である 戦国時代敵将に拘わる身内・親族は根絶やしされるのが当たり前の時代に重長は幸村の娘阿梅・阿菖蒲・おかね・大八と穴山小助の娘等5人を陸奥白石城二の丸で密かに養育されたのです 若し見つかれば隠匿罪で死罪だったでしょう 幸村には正室の他5人の側室がいたので子供は15人位いいたらしいが重長は正室の5人だけ預かったらしい その後女子はそれぞれが伊達家・片倉家の係累に嫁いでいる 大阪方の残党狩りの厳しい探索で特に真田幸村は徳川陣に攻め込みあわや家康の首をあげる一歩まで迫った幸村子孫には憎さ百倍の気持ちだっただけに相当な覚悟であったろ 幸村一族は大阪夏の陣で滅びたと思ったがどっこい陸奥の片倉家の片隅でしぶとくと生きながらえていたのです 今はその末裔の方々も徳川を恐れることなく生きている事でしょう やはり陸奥は敗者を暖かく包む国だったのです(参考 しろいしの真田物語 白石市総務部振興課)
上左 奥州白石噺 考子宮城野・信夫・父弥太郎之碑 と彫られている
 土井晩翠歌碑と不忘山
郷の生める 宮城野信夫 かんばしき 
     考女の誉れ 千代に朽ちせず
 

日本の三大敵討ちと云えば1193年曾我兄弟による敵討ち 1634年渡辺数馬・荒木又右エ門による鍵屋の辻の決闘 そしてご存知1702年の赤穂浪士討ち入りであるがここ奥州白石でも1636年(寛永13年)三大将軍家光のころ実際にあった話である つまり宮城野(実名まち)・信夫(実名おその)姉妹による『白石女敵討』である ここ伊達家重臣片倉小十郎領内の現大鷹沢三沢で田地12石の与太郎と言う百姓がいた 彼には妻との間に16歳と13歳の姉妹がいた 八枚田と言う所で3で人が田の草取りをしていた所へ片倉小十郎の家臣で剣術指南役の志賀団七が通りかかった時 妹信夫の投げた草が志賀団七の肩に当ってしまった 武士の顔に泥をぬられた団七は激怒し娘を切り殺そうとしたが平身低頭謝罪する弥太郎を切り殺したと言う事件なのです➡右上段
真田幸村と後裔仙台真田氏の関係遺構
右上
 真田幸清筆子塚碑文 蔵王町矢附川原畑 
 
碑文には 左衛門佐幸村十世 真田源田左衛門滋野幸清 南無阿弥陀仏曲竹村永野村 塩沢村 円田村 沢之村 当村門弟子中 明治5壬申年12月吉日年 とある 
右下
 真田豊治の墓      同上
墓石には幸村十一世 とある 幕末から明治初期の真田氏分家の当主 明治維新後は教員となり宮小学校の算術の教師 をしていた明治10年死亡 蔵王町永野地内の目立たない遺跡 この田舎町の片隅にも真田家の歴史が息づいていた
 
右端 ここ白石市に何と知将真田幸村の遺児4名と穴山小助の娘の墓があるのには本当に驚いた 真田幸村と言えば子供の頃あの真田十勇士の漫画で活躍した猿飛佐助・霧隠才蔵・三好青海入道・三好伊三入道・穴山小助・由利鎌之助・筧十郎・海野六郎・根津甚八・望月六郎の十名の漫画は今でも生き生き思い出すのです元和元年(1615)大阪夏の陣で東軍伊達政宗軍下の片倉小十郎(2代目)重長は道明寺口で大阪城から出てきた真田軍後藤又兵衛・薄田隼人正軍と相対して