石巻の歴史によると真野の地名の由来はいろいろあるらしい。当時この辺りはご存知リアス式海岸で入り江と入り江の間の野原の事を指して、「入り江の間野」が「真野」になったとか 宮城中北部の遠田郡の真野連の姓を賜った一族が開拓したからとか 或いは真草が生えている野原だからとか諸説紛々である。ここ真野の萱原を一躍有名にしたのはなんと言っても万葉集巻三の 笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌三首のうちのひとつで前記の一首である。愛する家持は782年(延暦元年)66歳の高齢で陸奥出羽按擦使兼鎮守将軍として多賀城に赴任した。もうすでに其の頃都ではまだ見ぬ真野の萱原は話題に乗るほど関心を持たれていたに違いない。陸奥多賀城にいる憧れの家持と陸奥にあるという憧れの真野の萱原とがだぶってあの一首になったのではないだろうか。然しながら当時のこの辺りの歴史を辿ってみると萱原を堪能しているほど余裕があったとは中々思へない程厳しい戦国時代だったのが浮かびあがってくるのだ。360年頃伊寺水門(いじのみなと 石巻)上毛野田道(かみけぬのたみち)将軍が蝦夷に殺されて以来、637年頃には同じ上毛野形名が一時蝦夷に敗北を喫した(然し最後は彼の女房がジャンヌ・ダルクのように立ち上がり侍女等に弓を持たせブンブン弦ををうならせ形名には酒を飲ませ奮い立たせ勝利したと言う)。720年9月にはなんと陸奥出羽按察使上毛野広人が蝦夷によって殺害される事件が起きている。続いて724年には陸奥大掾(高級官僚)佐伯児屋麻呂が海道(太平洋沿岸)蝦夷によって殺害される事件が起きてしまった。そして更に重大な組織だった蝦夷の反乱がおきたのだ。770年蝦夷とはいえ政府によって冠位を与えられ一時は朝廷の現地のまとめ役であった俘囚宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくつはう)が必ず桃生城を襲撃するという反乱の意志をもって仲間を引き連れ賊地に逃亡したのだ。やはり都人のお役人の態度 言葉を通した蝦夷蔑視に耐えられなかったのだろう。約束どおり774年に彼は海道蝦夷とともに桃生城を襲撃したのである。同じ年逆に按擦使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂が桃生の隣の登米を攻撃した記録もあるのである。この様に真野の萱原近辺一帯は実に戦場の最中なのである。更にその後史上有名な反乱が780年に起きるのである。家持が来る僅か2年前である。767年に築かれた伊治城俘囚伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)により襲撃されたのである。砦麻呂(あざまろ)の乱である。この事件により按擦使紀広純と牡鹿郡大領道嶋大楯が殺害された上、砦麻呂は多賀城まで襲撃し炎上させたのである。実に痛快な事ではないでしょうか。その為朝廷はこの辺りに対蝦夷対策として多数の城柵を設置している。牡鹿柵 新田柵 色麻柵 玉造柵(以上737年) 桃生柵 覚瞥(かくべつ)城(以上780年)等実に多くの前線基地を設置した時代である。この様に真野近辺は陸奥国と蝦夷国(日高見国)との国境地帯で戦線が膠着状態にあり、激しい戦いが100年以上にわたり続いた所で萱原どころか戦場が原なのである。この様な時代背景であるからとても大和の国の人が感傷に更ける環境状況ではなかったはずである。ここが都人が歌に詠む憧れの真野の萱原の地とはとても思えないのである。今この所在地の定説は福島県相馬郡鹿島町真野の地に比定されてい居るのは納得が行くのである(福島編参照)。すでに当時福島県は完全に大和朝廷に組み込まれていたのだから。(平成15年8月31日)(参考 古代東北の兵乱 吉川弘文館 みちのくの古代史 刀水書房 宮城県の歴史 平凡社  ケセン語大辞典 無明舎出版)

 
   真野川と真野橋

真野の萱原(石巻) 其の2