住吉公園内の延喜式内社飯石大島神社 貞観5年(786年)という由緒ある神社 北上川河畔の住吉公園内にある 石がついているのも石巻と無関係ではないだろう
 
 住吉公園にある道標碑だが石巻街道・金華山街道・一関街道と彫られている
 往時は石巻は重要な分岐点だったのでしょう
  旧毛利邸 石巻は江戸廻米の実施でその北上川河口の積出港として大きくなった ここ住吉には享保2年には18棟の米蔵建てられた この旧毛利家は今から130年以上前に建てられた その住吉米蔵の蔵守を代々勤めたのが毛利家である  明治維新の際には北進してきた榎本武揚を筆頭とする反政府軍は軍艦「開陽」以下7隻が折浜に停泊し石巻に上陸したのです 榎本・土方・星恂太郎等はここ旧毛利邸に陣取ったのです 明治政府軍と一触即発の危機を迎えたのです  続く右下へ 鋳銭場で亡くなった人々の供養碑 壽福寺 その労働環境の劣悪さから病気や労働\災害で亡くなる人多かったのです その慰霊碑・供養碑の板碑が上の写真です 
左 芭蕉一宿の地
鋳銭場近くにある新田町のGホテルの角に芭蕉が曾良と一泊した四兵イ宅の碑建っている
  住吉公園近辺の文化財
 鳥居が大島神社 その前の巻石が袖の渡り 現在地と書かれて所が小説の神様志賀直哉誕生の地である が正確には不明のようだ その上に旧毛利邸や旧仙台藩米蔵跡がある 死が直哉明治16年2月20日生まれだが明治18年には父が銀行退職し東京に戻っているので正確にはわからないがここ住吉一丁目なのは確からしい 現在地の右下に旧相馬家別邸とある 彼の曽祖父は相馬藩士だったからである 福島浜通りには志賀家が多い 
左上から
この石巻危機を救ったのが仙台藩士細谷十太夫直英です彼は毛利家当主毛利理惣治とともに榎本軍に大量の物資・食料を調達して北海道へと向かわせたのです 時は明治元年10月12日の事です この二階座敷には激昂した土方歳三の刀傷が残っています
 (説明板)
 
石巻駅から南東一帯が所謂鋳銭場です  石巻は江戸時代には仙台藩で唯一の貨幣鋳造の地なのです 今も町名に鋳銭場として残っています 常時2〜300名が働いていたという   享保年間以降仙台藩は幕府の許可を得て多くの銭を鋳造した次第に銅から鉄の一文銭に質が悪化し全国的経済混乱の一因となった 謂わば悪貨は良貨を駆逐するの典型だった 鋳銭場の創業は石巻町場の経済へも大きな影響を与え操業がない町場は火の消えたようだったという
袖の渡り 其の4