右上下4枚 式内社日高見神社
桃生郡日高見神社山は 桃生郡六座中筆頭の社格を誇る 源頼義・義家親子も神殿造営・祭田を寄進している 樹齢千年を誇る御神木の大欅は源義家が安倍貞任征伐の折り身を隠したとされ身隠しの木と呼ばれている ここの宮司さんの大和(ヤマト)昭彦氏の苗字は大和朝廷縁の苗字にも見えて中々意味深長である 尚平成16年の宮中歌会始めでこの欅を歌った
一本の 樹となりてあれ 幸せは
春の大地を 濡らしゆく雨
が入選されている
記紀に於ける蝦夷の国の別名其の名も日高見の国名を名乗る由緒深い神社で日本武尊・武内宿禰を祭神とする 殊に日本書紀に於ける武内宿禰の帰朝報告『・・・・東夷の中 日高見国あり 其の国男女並び椎結(かみをあげ) 身を文(もとろ)げて 人となり勇悼(いさみたけし) これを総て蝦夷と言う 亦土地沃土壌(こえ)て広し 撃ちて取りつべし』と物騒な記述があり 又三代実録に859年(貞観元年)には『陸奥日高見水神に従四位下を授く』とあり往古は北上川の水神であったのです
ここ河南町と気仙沼市大島に計仙麻神社は二つある 気仙沼は古代には計仙・氣瀬と書き「ケセ」と読んだ やがて気遷・気仙となり「ケセン」となった 計仙麻(ケセマ)はケセンの古名である 勿論ケセンはアイヌ語で「終り・端」を意味するケスから来てるのだと云う 古代に於ける気仙郡は桃生郡・牡鹿郡・本吉郡・岩手県気仙郡を含む広大な郡で総てケセンで括られていたのです だからこの地方には計仙麻神社があちこちにあるのです ケセンは807年(大同2年)気仙蝦夷のカナイヌ・ハヤトラ・クマイ等の果敢なる抵抗にもかかわらずケセン戦争で大和朝廷に敗れ支配下に入るがケセンの初代ケセン人郡司が気瀬直麻呂(ケセのアタイ・マロ)の名が見えその後金(コン)氏がケセンの統治者となるのです 又気仙地方は当時世界最大の金産地帯として世界に知られ「黄金国ジパング」のイメージを創ったのです 蝦夷安倍氏とその後の平泉文化 更には黄金目当ての世界大航海時代の引き金にもなったのもここケセンと言うのも大袈裟ではないのです |
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桃生郡河南町にある江合川(向こう)と北上川(手前)が合流する地点 和渕山の裾が江合川に接する所に伊豆香取御子神社がある 江合川はこの奥上流まで蝦夷の第一次防衛線であり北上川も蝦夷の大防衛線の大河でる
下左 延喜式内社和渕神社 式内社牡鹿郡十座の一つ 風土記御用書上によると田村麻呂将軍大同2年806年遠田郡箟岳へ11面観音建立の折り和渕山本宮に木船明神を勧請したのに始まる(説明板) 下右 江合川と北上川を渡す和渕舟場は気仙道(小野本郷〜気仙沼〜気仙郡)の重要な往還で江戸時代には2件の舟場屋敷があった |